【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】
皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「瞑想に環境は影響するか」です。
[Q]
瞑想と環境について教えてください。良い環境・悪い環境というのはあるのでしょうか?
[A]
■一概には言えない理由
これは、あるとも無いとも言えないのです。私たちが紹介している瞑想は「心を清らかにすること」ですから環境は関係ありません。例えば、体の中には免疫システムがあって体を守っています。いい環境で生活できるなら免疫システムはいりませんね。良くない環境にいればいるほど、免疫システムが頑張って働いて強くなっていきます。無菌状態で一ヶ月くらいいると、一般社会に戻った時に大変危険なのです。身体の免疫システムが機能低下しているので、外に出た途端に簡単なことで病気になって死んでしまいます。
心の場合もこれに似ています。怒らざるを得ない環境で「怒らない訓練」をすれば、自分の修行になります。逆に、怒らないために優しい人とばかりつきあったら修行にならないのです。却って、自分に免疫が無くなって、ちょっとした言葉の間違いにも激怒するようになるかも知れません。ですから一概に言いにくいのです。
■守られた環境で訓練してから実戦に挑む
ボクシングをする場合にも、経験の無い人をいきなり試合に出したら大怪我しかねません。当たり所が悪かったら死んでしまいます。初心者は顔にガードをつけてスパーリングして、パンチを受けながら能力を上げるのです。同じように、精神が弱い人をいきなり実戦に出すのではなく、訓練して能力を上げて、一人前にしてから外に出すということもあります。その場合には適切な環境が必要です。あらかじめ良い環境で訓練して能力を上げるのです。そういう順番で訓練をして、やっと試合に出るのです。瞑想の環境もそういうものです。どうしてもダメな人間、気の弱い人間は環境を選んだ方がいいのです。でも、それに甘えてはいけません。必ず外に出ないといけない。訓練が進んだら、トレーニング環境を離れて外で試合をしないといけないのです。
子供が自転車に乗る場合は補助輪をつけますけど、つけっぱなしではだめ。練習してから補助輪を外さないといけないのと同じことです。
■自分を変える/環境を変える
人がうるさくて怒りが出てきそうになったら、「今、仕事する時だ」と、怒りが出てこないように気をつけることです。子育て中のお母さんは怒りっぱなし。そこで「怒らないこと」の修行をしてみるのです。子供がやってはいけないことをやっていて、それを止めさせないといけない。「怒らないでどのように対応しましょうか」、と挑戦してみれば、そこでいろんな智慧が出てきますよ。
もうひとつ、体が環境に適する・適さないということもあります。例えば、私のような年寄りに厳しい環境は無理です。厳しい環境にいて、瞑想完成する前に死んでしまったら困ります。その場合は環境を変える。食べ物が体に合わないということもある。それでは、心を育てるどころではありませんから、そういう所は避けるのです。
■決めつけず理性を使って判断する
このように、その都度その都度理性で考えて欲しいのです。断言的にこれと決めてはいけません。瞑想に適した環境という場合はよく調べて理性で判断すること。人が集まってパーティーをしているところで瞑想するとかは止めた方がいいのです。
お釈迦様も托鉢に出る時は「お祭りをしている所は避けなさい」と仰っています。祭りをしている時にはその村に行かないようにする。でも、それも断言的な決まりではありません。時々、わざと祭りをしている街に托鉢に行く場合もあります。その場合は、人格者の大物のお坊さんが、自分と関わりのある在家の人が祭りに参加して悪いことをしたら困ると、敢えて行くのです。それで、その方の世話をするうちに在家の方もお祭りに行く時間が無くなるのです。
日本だったら環境は大丈夫でしょう。伝染病を持っている蚊もいませんから。自分の国、スリランカだったら蚊がたくさんいますよ。日本は食べ物の問題も無いし、家の中も清潔でしょうし。瞑想しようと思えばすこぶる環境がいいと思います。仏教では、あえて◯◯に行って瞑想しなくちゃいけない、という場所は無いのです。しかし、自分を育ててくれる立派な師匠がいるならばそこに行くべきです。
結論としては「自分をしっかり育ててくれる師匠がいる所が瞑想に適した場所」ということです。それでも自分で自分の心を育てることが瞑想ですから、断定はできませんが。仏教の世界の「良い師匠」とは、教えることはさっさと教えて、「はい、出ていってください」という態度を取るのです。弟子を甘えさせません。疑問があれば質問できますが、ずーっと一緒にいて依存するという関係は、良い師弟関係ではありません。
仏教はいつでも理性で適宜に判断するのです。断言的な項目を挙げて、人を束縛することはしないのです。理性で判断できる能力を、一人ひとりが育てないといけないのです。
■出典 『それならブッダにきいてみよう:瞑想実践編1」