【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】
皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「五戒の守り方」です。
[Q]
長老のご著書に「ヴィパッサナー瞑想を始めるに当たっては、五戒を守ることが前提」だとありました。しかし、五戒を守るのは非常に厳しい状況です。不殺生戒にしても、不飲酒戒にしても、なかなか自分にはできないなと、仏道の入り口のところで逡巡しています。どうしたらいいでしょうか?
[A]
■五戒のメッセージ
五戒を守ることは「道徳的な人間になりなさい」というメッセージです。「まともな、立派な、理性的で、間違ったことはしない人間になりなさい」というメッセージなんです。性格がだらしないのに悟ろうってどういうことでしょうか? 悟るとは人格が完成することなんです。
そのために、私たちは自分のこころをステップ・バイ・ステップで直して行かなくちゃならないんです。人間は何でも一発でできることはあり得ない。何をするにしても、計画を立てて、段取りして、順番に、着々と進めるものです。世の中すべてそうなっています。
一発でできるように見えるのは破壊することだけですよ。自己破壊、他人破壊、世界の破壊。でもそういうことでも、何だかの企画を立てる必要があります。段取りはあるんです。例えば、テロリストがどこかに爆弾を仕掛けようとするでしょう。その場合も精密に段取りしてやらなくちゃいけないんです。
物を壊すとしましょう。簡単です。例えば陶器を壊そうと思ったら落とすだけです。しかし作る方はどうでしょう? 時間がかかって根気のいる仕事なんです。
世にある仕事の中でも、私たちは一番難しいことをやろうとしているんです。人格を向上させて完成させるという、オリンピックで金メダルを取るよりも難しいことに。だからちょっと、根気強く、粘り強く頑張らなくちゃいけないんです。
そこで、初めは「道徳的に立派な人間になりなさい」という戒律からスタートするんです。仏道は、人間を乗り越える超人の道だと言われています。乗り越える前に立派な人間でいなくてはダメです。人間として失格だったら話にならないんです。ただ感情のままに、遺伝子の指令のままに生きることは誰だってできます。犬猫だってやっていますからね。
私は、お釈迦様が使っていないすごく乱暴な単語を一つ使っています。「人間と言って威張っても、私たちは他の生き物と変わりありません。まずは〈ケモノ〉の状態から脱出しましょう」と。お釈迦様はそういう単語を使っていません。すごく乱暴な言葉ですから。
普通に社会で暮らす人間としては、自分の良心が自分を訴えない状態をまず作らなくちゃいけないんです。質問者の方は、戒律というのは一つの儀式のように感じているのかもしれません。「仏教という宗教にあるさまざまな儀式・しきたり・習慣、それができないと先に進めないのではないか?」と。しかし五戒は決して儀式ではありません。
五戒は、自分の弱みと戦うことです。自分の〈ケモノ〉の精神と戦うことなんです。
■人間に生まれるのは、まれにもまれ
例えば、動物は嘘つかないんです。言葉をしゃべりませんから。でも自分が飼っている犬猫はけっこう飼い主をだまそうとします。それは自分の都合でやっていることです。でも、動物はどうしても殺生を犯してしまいます。肉食動物たちに殺生はやめなさいと言っても意味がありません。
そこで問題は、「われわれはなぜ人間になったのか?」ということです。
膨大な生命の中で、人間の数は極めて少ないんです。生命の認識は九つの次元に定着します。一番目の次元は、体を持って五根に頼って生きる次元です。その中に、地獄の生命・餓鬼道の生命・畜生・人間界・六つの天界が入ります。その中の畜生界のことは私たちにもわかります。人間と同じ次元にいるんです。微生物からクジラまで畜生次元です。では、どれぐらいの数と種類がいるでしょうか? 人間の数と比較してみてください。比較にならないです。人間の数はあまりにも少ないんです。
生命の環境は多様多彩です。中でも地獄は108あると言っているんですよ。大地獄4つに、それぞれ108の小地獄があるんだそうです。一旦地獄に堕ちたらすべて通過しなくちゃいけない。仏典にそういう話が一応あります。天界にしても同じです。ものすごく幅広くて、途方もない数の生命がいるんです。
現代的に考えても、宇宙って無限でしょう。その宇宙に人間と同じ生命がどれほどいると思いますか? 仏典には、お釈迦様がごく普通に、八万四千の宇宙に話をするというエピソードがあるんですよ。事実かどうか私はわかりませんけど、昔から仏教の人々は、人間の世界はここだけじゃなくて、八万四千――これはすごくたくさんという意味です――あると考えていたんです。
だから未だに科学者は、地球と同じ条件の星を見つけて無いでしょう。見つからないんです。なぜなら惑星は光を放っていないんだから。恒星なら何とかわかるから、遠く遠く光の粒としか見えない恒星の間に、チラッと黒い点が横切ることを待ち構えているんですよ。よくそんなことをやると思いますよ、何年もかけて。しかし推測すれば、地球と同じく生命のいる惑星はいくらでもあり得ます。
ですから、生命っていうのはものすごく幅広い。生命の数も宇宙のことも、人間は考えるのをやめなさいとお釈迦様は仰っています。そんなことを考えても頭がいかれてしまうだけだと。
それでわたしの言いたいポイントはこういうことです。
この無数の生命の中で、まれにもまれなチャンスで、私たちは人間になったんです。因果法則によってそうなったんです。「なんで、私はこんな身体になったのか?」というのは、それぞれの因果法則です。数学ができる人がいて、数字が苦手な人もいて、音楽が得意な人がいて、音感ゼロな人もいたりと、あらゆる条件が揃って肉体が成り立っているんです。
心にしても、自分が好きなように管理できないでしょう? 心は心の勝手で、肉体は肉体の勝手で、それぞれの法則を持って生きているんです。それで、すべての生命に因果法則によっていろんな制限が成り立つんです。自分の命でこれはできる/できない、というものがあるんです。
私たちには神々や餓鬼道のことはわかりませんから、自分にある手あたり次第のデータで考えるしかないんです。
イワシという魚がいるでしょう。イワシはいくら踏ん張っても、サメがやることはできないんです。タコができることも、イワシには無理でしょう。同じように猫に水の中で生活しろと言っても無理です。食べるものも明らかに違います。そういうふうに制限があるんです。それは乗り越えられません。
動物にも心があります。あるんだけど、思考能力は肉体を維持する程度にストップさせています。魚にも心はあるけど、肉体を維持する程度でストップさせています。ミミズにも心があるけど、ミミズとしてあの肉体を維持する、子孫を作る程度でストップさせています。その制限は全く破れないんです。
人間の肉体にもいろいろ制限があります。目はあるけれどすべて見えるわけじゃない。耳はあるけれどすべての音が聞こえるわけじゃない。私たちに聞こえない波長の音は、存在すらしないと思ってしまう。光も、人間にはほんのわずかな帯域しか見えません。幅広い光があるのに、殆どは見えない。レントゲンの光もわれわれには見えません。X線という光があることを知識として知っていても見ることはできない。だから犬が世間のすべてを知らないのと同じく、人間も存在のすべてを知っているわけではないんです。
■人間にはこころの制限を外せます
そこでポイントに戻ります。
人間には、心にある制限を外せるんです。これは神にもできません。しかし人間にだけ、心に制限というカギがかかってないんです。今私たちは、肉体に対して心をギューッと「絞って」いるんです。私たちの心が持っているすべての能力を、肉体のために使っているんです。しかしそれ以上もできるっていうことを、もうわかって欲しいんです。
宇宙の研究をする人々は、人間には要らんことをやっているでしょう。日常生活ではわかるはずもないことを発見しているんです。小さなもの、ミクロ世界を調べる人々は人間にわかるはずもない、要らんことをいっぱい発見しています。分子の構造はどうなっているのか? 原子の形はどうなっているのか? 素粒子の法則は? と、そんなもの知らなくても生きていけるでしょう。そういうふうに人間にだけ、いろんなことができる。われわれには心を成長させることが可能です。
人間だけが、生まれる時に与えられた制限範囲を超えて、いろいろなことをやっているんです。数学って何でしょうか? 数学そのものは世に存在しないものでしょう? 2+2=4は、どこにある存在ですか? 数学を犬に教えてあげてください。犬にとっては数学という概念自体が存在しないんだから、理解できません。
現に私たちは、肉体を維持するためにいろいろ調べて、数学・科学、いろんな愚かなことをやっています。しかし、それはすべて肉体を維持するために使っているんです。数学も生きるために使っているんです。素粒子のことを勉強しても、宇宙のことを勉強しても、肉体のためにやっているんです。肉体の制限を乗り越えようという目的ではやっていないんです。
お釈迦様は、そういう人間の生き方に対して反対のことを仰います。「命は、生きることは苦しいんだから、あんまり意味がないんだから、これを乗り越えるために人間の能力を使いましょう」と提案しているんです。
「肉体に制限されている心を、肉体から離れて使えるようにしましょう」ということです。これは、科学者はやらないことです。いくら素粒子が、量子力学が、と言っても、肉体の次元から離れていないんです。
言葉を変えると、人間で生まれたならば、何か宿題があるんじゃないかなぁと。
理由も無くこのカギが開いたわけじゃないはずです。理由も無くカラスに翼があるわけじゃないでしょう。何の理由も無いんだけど、魚には足が無いとはいえないでしょう? ちゃんと理由があるんです。
■人間の義務は人間を乗り越えること
私たちには、肉体のためにではなくて、肉体を措いておいて、心を活動させる能力があるんです。そういう理由があるんです。
それこそ、私たちが人間に生まれたことの意義であって、義務なんです。人間に生まれたけれど、ただの人間のまま死ぬなよと。このチャンスは人間にしかないんだよと。
人間でいるのもほんのわずかな時間ですよ。
他の生命はものすごく寿命が長いんです。われわれが知っているのは畜生ですけど、動物は地球の土で体を作っているから寿命が短い。地球の土では無いエネルギーで体を作っちゃうと、寿命はすごく長くなります。
この短い時間で私たちが「人間を乗り越える」ということは義務なんです。
これをみんなわからない。無知ですから、肉体のことしか考えていない。普通の知識の範囲には入らないものなんです。私たちは目をどうするのか、耳をどうするのか、肉体をどうするのかということで精いっぱいです。
そこを乗り越えて、他の生命にも他の人間にもできないことをやってみてはいかがでしょうか。『慈悲の瞑想』もその一つです。それは本来誰もやらない仕事です。しかし、「わたしの嫌いな生命も幸せでありますように」と思う。そこで一つ発見する。なんでそこで、ちょっと引っかかるんんだろうか? と。物事を「私」という主語で考えているからです。その時点で思考がおかしいでしょう。「私」という中心・観念で物事を見てもすべてが見えるわけじゃないでしょう。
誰の世界観が正しいんでしょうか? カラスに見える世界? ネズミに見える世界? 魚に見える世界? どれにしたってすごく小さな世界であるとわかります。猫が住んでいる世界はどうなっていると思いますか? 猫は猫で、自分・猫という見方で見ている。わたしたちも、人間・私という主語で、物事を見ている。これ自体がおかしいんです。それに気づいてもらうんです、この『慈悲の瞑想』という実践方法で。
「私」という主語を無くして、「ただの生命」になってみたらどうでしょうか。ただの生命、それぞれにそれぞれの生き方がある。放っておきましょうと。あえて、蛇に足を付ける必要は無いでしょう? 大きなお世話です。
自分という気持ちが無ければ、すべて生命として観える。生命として観えたら、嫌いな人・嫌いな生命なんていなくなるんです。いえ、いるはずがないんです。
■蚊に刺されないようにする。しかし蚊を憎む必要は無い
そういうスタンスで考えてみましょう。私たちは決して蚊が好きでは無いでしょう? なぜかというと、刺すから。では、生命の立場で考えてください。蚊は何か悪いことをやっているんでしょうか? 蚊にとって刺すのは仕方がないことです。人間の血を吸わないと生きられない体に生まれちゃったんだから。可哀想でしょう。生命が餌を求めることは間違いですか?
そこで、生命に対する慈しみが現れてくるんです。決して、蚊には刺されないようにしてください。しかし、刺されたくないからといって、蚊を憎む必要は無いんです。家にゴキブリが繁殖しないようにしてください。しかし、ゴキブリを憎むなよと。
人間の中でも、みんなそれぞれの自分の生き方があるんです。ある人が私に悪口を言う、侮辱する。私が怒る必要は無いんです。その人は仕方が無くやっていることですから。その人に何か問題があって、私を侮辱したりする。そこで仏教徒は慈悲の気持ちを、その場合は憐れみ(カルナー)の気持ちを抱くんです。
人間の社会にもいろんな人がいる。一人ひとり違う人格があるのは仕方がありません。そこで私たちは人を直そうとする。それは蛇に足を付けたそうとするような余計なことで、とんでもない侮辱・罪なんです。放っておくんです。
そういうことで、『慈しみの瞑想』すら、生命は根本的にやりたがらない実践方法です。
人間はジコチューで、「自分に見える世界がすべてで、あんたに見える世界が間違っている」とエライことを言っているところに、私たちは『慈悲の瞑想』をしてみるんです。つまり私たちは宿題をやっていることになりますね。因果法則によって与えられた宿題を『慈悲の瞑想』としてやっているんです。要するに、生命としてしっかり自分の義務を果たす、まともな人間なんです。
だから誰にも文句を言ったり、ケチを付けたりすることができなくなります。『慈悲の瞑想』をすると、自分の周囲が不思議とスムーズに運んでいくことに気づくと思います。
■肉体至上主義をやめてみる
それで、戒律の問題に戻らなければいけないんですけど、戒律は『慈悲の瞑想』よりもっと根本的です。
人間に生まれたっていうことは、理由があってそうなったんです。理由というのは神ではなく、因果法則です。神秘は全く絡んでいない、ただ因果法則です。因果法則によって輪廻し続けて、でも人間に生まれると、心だけカギが外れて開錠されているんです。肉体は施錠されています。人間は空を飛べませんし、水の中で生活できません。食べる物もこれだけ……と限られています。世界中にいろんな植物が生えていますが、すべて食べられるわけじゃない。でも、心の鍵だけは外れています。
そういうことで私たちは宿題をやるべきなんですが、その時間も無い。80歳まで生きるかもしれないけど、宿題には殆ど時間を使って無いでしょう。
皆さんはたまたま、お釈迦様の話が耳に入ったから、たまたまここに来ただけです。そういう一部を除けば、生命は宿題をやっていないんです。皆さんは、しかも人間としてブッダのメッセージを聞くチャンスをいただいたんです。宿題を実践するチャンスも手の中にあるんです。
第一の宿題は「肉体至上主義で生きるなよ」です。こころ中心に生きてみましょう。
と言っても難しいでしょう。肉体を忘れて生きることもできないでしょう。超難しいことです。そこで丁寧に、「あなた、嘘つくことをやめたらどうですか?」「殺生することをやめたらどうですか?」と、五戒という形で具体的な宿題を与えているんです。本当は殺生したいんです。でも、それは犬猫でもやっていますから。わたしは人間だから殺生をストップできるんだ、と。
最初は、ちょっと不自由を感じますよ。でも、やってみたら、その世界が自由であるとわかるんです。
嘘をつかないでいると、他の人間よりもずっと強く、自由に、不安無く悩みなく過ごせる、という自信が付いてくるんです。戒を守って生きることに確信が湧いてきます。曖昧さも、脅えも、不安も無くなるんです。宿題をやったことで心の成長を感じられるんです。
■戒律を守ると健康でいられる
五戒というと「酒がやめられない」という問題があります。酒はどう言いつくろっても体に毒ですよ。しかし肉体はあの刺激に依存しちゃって、つい飲んでしまいます。やめられない……ということになる。
ということは肉体至上主義です。やめたら最初は、人間関係もあるし、文句とかいろんなことを言われるかもしれません。それでも決めたことをやってみると、精神の強い、優柔不断では無い人間になって、他の人々にも文句が言えなくなっちゃうんです。
それだけじゃなく、肉体に関して不安を感じる必要が無くなるんです。
身体を守りたいでしょう? 守りたければ五戒も守ることです。それで心だけじゃなくて、肉体まで守ってくれるんです。一石二鳥です。
戒律というのは、しきたり・儀式など宗教的にやらなくちゃいけないことじゃないんです。心を管理することです。〈ケモノ〉のままに働いている心を調教することです。
仏教の戒律は、五戒だけに限りません。
仏教を学ぶ人は、食事も気をつけなくちゃいけない。食事の場合、気をつけるべきなのは量です。仏教は菜食主義とは言ってません。肉体を維持できる材料は決まっています。そこで量を考えてください。なぜならば食べる時、美味しいから食べちゃおうという煩悩が働いてきます。そこで仏教徒は、「美味しいから食う」ではなくて、壊れる肉体を修復する材料を入れなくちゃいけない、燃料を入れなくちゃいけない、と考えて、どの程度肉体が壊れるかチェックして、その分だけ入れる。余分に入れたらそれは脂肪になったりコレステロールになったりして、結局、毒になるんです。
だから戒律を守ることは、肉体に対しても優しい態度なんです。私たちの体はただの肉体じゃなくて、食べ物を保管するトランクルームになっているんですよ。食べる物に限って無常が激しいんです。いつでも使用期限・賞味期限があります。すぐ壊れるから食べ物になるんです。無常でなければ食べ物になりません。石はそう簡単には壊れません。食べ物になりません。
何で私たちには雑草などが食べられないかというと、分解するためにすごく時間がかかっちゃうんです。牛には食べられます。食べることに時間がたっぷり使えますから。われわれはジャガイモ・キャベツなどを食べます。いとも簡単に潰れて壊れるものだからです。栄養っていうのは保管できないものでしょう。すべて体の中で腐ってしまいます。細胞は何かあったら使う目的で、せっせと保管するかもしれませんが、結局使いません。使用期限が切れてしまうんです。
皆さんが食べ物を買う時は、使用期限・賞味期限をよくチェックして、それから食べているのに、結局、食べ物を体に貯めているんです。
ですから、戒律を守らないことは、自分の肉体に対しても敵として行動することなんです。
やってみると、そのポイントがわかってきますよ。戒律を破るよりは守る方が楽だと。その方が幸せに生きていられるんだ、健康でいられるんだと。
■八戒について
戒律を守れない場合、そこにあるのは精神の弱さです。成長したくない・山を登りたくないという、自分の弱みです。弱音を吐くなよ、と言いたいんです。弱音を吐いたら成長は無し。山は険しいから登るんです。楽々だったら登っても達成感が無いでしょう? 誰も登りたくないような、険しくて危険な頂上を制覇したらニュースになりますが、ヘリコプターで行ってもニュースにはなりません。人生もそうですから、道徳を守ろうとすると同じ気持ちになります。でも、最初だけです。時間が経つと守った方がすごく楽になるんです。
酒だって飲まないほうが楽ですよ。ずっと飲んできたという習慣のせいで、最初は寂しく、きつく感じるだけ。だいたい一か月間以内で体が健康状態に戻ります。そうなったら酒そのものが毒に感じられるようになります。「よくもこんな毒を飲んでいたな」と思うはずです。
他のお坊さんたちの説法を聞くと、五戒でなくて八戒を教えたりしています。八戒を守るのも難しいと思いますよ。八戒は二種類ありますが、ここでは一つのバージョンを紹介します。「不殺生、不偸盗、邪な行為をしない、嘘を言わない、乱暴な言葉を使わない、無駄話しない、悪口を言わない、正しい生活をする」という八項目の戒(Ājīvaṭṭhamaka sīla, 活命第八戒……正命を八番目とする戒)です。
こうなってくると厳しいです。仕事の上で何の罪も犯してはいけないことになります。仏教では「正しい生活(正命)」の中で、肉魚や動物を売ることもやめなさいと言っています。だからペットショップはできなくなります。医学はできます。しかし、医学部の学生はできなくなっちゃうんです。だって解剖などで動物を殺すでしょう。医者になった時点からは、実践できます。弁護士の仕事は……すごく曖昧です。法廷では、依頼人を勝たせるためにあらゆるカラクリを駆使しなくちゃいけませんから。正しい生活になる場合も、ならない場合もあります。農業は当然できる仕事で、商売もできる。しかし、そうやって生活するうえでも、間違ったことは一つもやってはいけません。これはすごく難しいんです。
ですから一般的なお坊さんたちの考えは、「道場に何日かいる場合はこの八戒を守れますが、在家世界では五戒にした方がいいんじゃないか。お釈迦様がそう説かれているんだから」というものです。五戒を守りながら、ということであればペットショップもできます。
■自由になることが「戒(Sīla)」の意義
心を清らかにする。汚さないようにする。その生き方を「戒律」というんです。ですから五戒だけじゃありません。他のことをやっている時に心が汚れていくならば、戒を守っていないことになります。ご飯を食べる時でも、体に必要なもの以上を食べてしまうと心が汚れてしまいます。執着が働いているからです。そこで、心が欲や執着で汚れないような生き方をすると決めたら、それも戒律です。
「私はもう、五戒とかそういう項目では縛られていないけれど。心が汚れないように生きてみます」と言ったら戒律を守っていることになります。縛られることが戒律では無いですから。自由になることが戒律なんです。
だから戒律という訳語はあんまり正しくありません。仏教ではSīla(シーラ、戒)といいます。Sīlaというのは、すごく落ち着いて穏やかに生きるという意味です。Vinaya(ヴィナヤ、律)というと細かい項目になります。Sīlaという場合は、あまり項目にならないんです。
「電車に乗ったら走るなかれ」「あまりでかい声でしゃべるなかれ」などなど、項目ならいくらでも作れますよ。でも、そんなことをやったら心穏やかにならないでしょう。どこまで作ればいいのかと、きりがないんです。
五戒は、さまざまある戒律項目の中でどうしても残る項目、いわば最低限の「生き方」です。間違いのない生き方なんです。
それでもちょっとなぁ……と負担を感じることもあると思います。負担を感じないやり方は、「心を汚さないように」だけ気をつけること。それは毎日が修行の世界になります。服を着ることも戒律に入ってくるんです。ちゃんと節度を知って服を着る。身体の面倒を看る時でも、節度を知って面倒を看る。心が汚れないようにする。そういうふうにいろいろやることが出てきます。
「五戒を守らないと瞑想する資格も無い」というのはちょっと余計な考えで、怒りの反応です。「心が汚れたままで、弱いままでそのままにしておきましょう」というのは成り立たない話だ、ということです。
そういうことだから、瞑想する前に五戒を唱えて、その間は戒を守ってみる。人間はどうしたって戒律を破るものだと仏教は知っています。知っているから瞑想する前に五戒を授けてあげる。瞑想中は破れませんから。それで戒律を守った状態で瞑想ができるようになっています。
しかし、「瞑想が終わり次第、戒律を破ってしまうぞ」と思っちゃうと瞑想が成長しないんです。終わったら破るかどうかは措いておいて、「今、戒律を守ってください」ということです。そうすることで心が徐々に成長していきます。
戒律そのものはあまり問題にしなくても、すごく真剣に、素直に、正直に瞑想する人々は、自動的に戒律違反を、だらしない生き方をやめているんです。私の周りにも「酒をやめるつもりは全く無い」と言っていた方々は結構いますが、結果的にやめているんです。「私は酒をやめるつもりは無いんですよ」と言うものだから、私は「いいですよ。だったら瞑想は真面目に、素直な気持ちでやってみてください」と言うとその通りにするんです。やってみたら本人が酒をやめているんです。「あんなの(酒)は嫌だ」と。
頑張る時には無理をするんじゃなくて、理性をもって、できることから着々とすればいいんです。
人間に生まれるのはまれなチャンスです。理由があって人間になったんです。人間に生まれた義務があるんです。お釈迦様がそれを言わない限り人間にはわからないんです。皆さんはもうお釈迦様の話を聞いたんだから、人間としての義務を果たすのが義務です。
私たちは人間の認識次元を破って、真理をありのままに知られる次元まで成長しなければいけません。
■失敗に悩まない
五戒を守れないと弱音を吐く方々にはちょっとした問題があります。彼らは元来真面目なんです。五戒の話を聞いたから真面目に守ろうとしたんです。素直であること、やるべきことを真面目に行なうのは、解脱に達する資格があるということです。ですから、弱音を吐く方々は、元々、瞑想実践を成功できる資格を持っているんです。
問題は別にあります。人間は不完全です。何をやろうとも失敗するんです。成功ばかりの人生はありえません。五戒を守ろうと決めても当然、失敗するんです。戒が破れてしまうんです。これは大きな問題ではありません。そもそも人間なので失敗は当り前です。しかし「失敗したんだ」と落ち込むことは危険です。それは、自分に対する怒りになるんです。戒律の場合は、戒律を守りなさいという仏教に対しても、お釈迦様に対しても怒ってしまうんです。戒律の一項目、二項目を破っても、それはただ人間の弱みであって、重い罪を犯したということにはなりません。しかし、失敗に落ち込んだら、自分に対して、他人に対して、怒りを抱くので罪になります。ブッダと、ブッダが説かれた真理の教えに対して、怒りを抱くことは重い罪になります。戒律を破ってしまうことは問題ではありません。それに対して落ち込むこと、自己嫌悪に陥ることが大きな問題です。
物事に対して巧みなアプローチをしましょう。巧みであることは善であると、お釈迦様が説かれているんです。五戒を守ろうとすることは巧みな決まりです。しかし人間は弱いので、一項目が破れてしまうとそれにつられて暗くなってしまいます。それは巧みではありません。「一つダメでも四つも守っているではないか」と、ポジティブに自分の努力を評価するべきです。では、四つも項目が破れてしまったとしたら? それでも一つの項目を守っているでしょう。
守れていないものを見て自己嫌悪に陥るのでは無く、守れているものに対して喜びを感じるべきです。戒律が破れてしまったならば、自分の性格の弱いところが明確に見えるのです。それから、その弱味も無くそうと努力してみましょう。
戒律が破れてもいい、守らなくてもいい、という話ではありません。人格向上する道を諦めてはならないのです。
■出典 『それならブッダにきいてみよう:瞑想実践編1」