アルボムッレ・スマナサーラ

【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「肉体への執着が無ければ地獄に堕ちても平気?」です。

[Q]

    もし自分の肉体への執着が無ければ、地獄に堕ちても平気ではないでしょうか?    地獄に堕ちると、極寒や灼熱、舌を抜く、鬼に殴られるなど、体にダメージを与える拷問のような目に遭うという印象があります。恐怖はありますが、よくよく考えてみると地獄は肉体にダメージを与えるくらいしかなく、もし自分の肉体への執着が無ければあまりつらくないと思うのですがどうでしょうか?

[A]

■人々が知る地獄とは、ただの文化的イメージ・物語に過ぎない


    地獄のイメージというのは、皆さんが勝手に描いた物語です。基本的には人を脅して悪行為をやめさせて、善行為するように仕向けるための躾です。経典にも地獄・不幸な生命次元(世界/境涯)があると説かれています。それが各国土着の文化によって、日本は日本文化によって、仏画にもあるような地獄のイメージを持っているのです。よく考えれば屁理屈じゃないだろうか?    と感じることもあります。例えば、何万年という寿命が与えられて獄卒(鬼)たちが舌を抜いたり、首を斬り落としたりという物語があります。普通、舌はひとつしかないから一回抜かれたら終わりです。それなら苦しみも一回だけになります。そうではなく何度も舌が生えてきて、限りなく舌を抜かれ続ける苦しみを受ける。しかし、何度も舌が生えてくるなら、「どうぞ、好きにやってください」と待っていればいいだけとも考えられます。
    ですから、仏画などにある物語は、あくまでも人間にイメージさせるために描かれたものなのです。〝生きたまま誰かに舌を抜かれるといった極限状態になったら、どれほど苦しみを感じるのか〟ということを想像させたいわけです。それだけ過酷な状況なら即死で、「痛い、痛い」と泣き叫びながら改心する余裕など無いでしょうね。まあ昔の人が真面目に考えたことなので許してあげましょう。そんな地獄絵という脅しの道具まで作ったのですが、人間が悪行為をする頻度は減るどころか増えています。悪行為を止めさせるのが狙いでしたが、誰もその戒めを聞いてくれません。ですから、地獄がどういうものかそれほど気にすることはありません。

■輪廻とは因果法則により、心という認識機能(エネルギー)が流れていくこと

    問題はそれだけでは終わりません。地獄絵の描写とは異なり、肉体は輪廻転生しません。心という認識機能で行われる感覚や思考の流れが続いていくだけなのです。その流れ方でいろいろな場所を流れることになる。この肉体でまさに死ぬ瞬間の心(死心)が、次の心に相応しい適切な場所を選ぶのです。選ぶというより因果法則によって流れて行ってしまうのです。例えばリンゴの木に成った果実が熟したなら、「よし、落ちてやろう」と思わなくても自然と落下します。植物の中には空を飛ぶ種があります。例えばタンポポやアルソミトラやソリザヤノキなどの種は大きく羽のようで美しいのです。その種も「では、あっちに飛んで行ってやろう」とは思っていません。ただ果実が熟して、その時に吹いた風向きに飛んでいくだけです。ブテア・モノスペルマという種類の種は、くるくると回転しながら落ちていく。その種が落ちる様子は美しく見えます。そのように因果法則によって、死の間際の心の状態が、次の場所(次元)で認識を始動させ流れて行ってしまうのです。
    認識機能というと、私たちはすぐ言葉や概念の回転だと想像するのですが、もっと微妙な認識があるのです。その認識の波が激しくなると概念や思考といったものになるのです。皆さんも自分の心を観察してみると、考える前に何か微妙な認識(認知)があって、終わっていると気づけるはずです。その後にその認識を言葉というものに乗せて発するのです。例えばある問題について「あなたはどう思いますか?」と訊くと、相手は言葉を発する前に何かの結論に達しているのです。その結論をどんな言葉で表すのかと決めるのに時間がかかります。ですから、死に際でも言葉や概念ではなく、瞬時に認識が回転していて止まることはありません。その認識状態で、次の行き先が現れてきてしまうのです。

■仏教心理学からの地獄の説明

    人間を基礎にして天国や地獄という物語(観念)を作っているだけです。天国=幸福で地獄=苦しいと分けているのです。これについては仏典や昔の人々はあまり詳しくは書いていません。ですから少し説明してみます。

■地獄という次元では 期待が真逆になる

    物事が幸か不幸かということは自分で判断するのです。あくまでも各生命の判断によります。そこで苦しいと感じるのは、自分にいっぱい期待が.
あり、溢れるほどにも関わらず、何一つも期待通りにいかない時です。期待が叶わないだけではなく、正反対の結果になってしまった場合、それは耐えられないほどの苦しみなのです。例えば早く走りたいと期待したのに、それどころか足の骨が折れてしまって立つことすらできなくなるようなイメージです。骨が折れる痛みより、期待が真逆になったことの苦しみの方が、心に耐えられないほど厳しいのです。
    これは人間の社会でよく起こることです。ある人が、体調が悪くて病院で検査をしたところ重病にかかっていたとします。それで苦しみを感じます。不幸を感じるのです。その苦しみ・不幸を感じる程度は、自分がどれぐらい生きることに対して期待をしていたのかということによって変わります。生きることに対する期待が壊れたのです。幸不幸は期待によって変わるのです。期待通りになったら喜んで舞い上がってしまう--それを幸福と言っているのです。それが心の法則です。輪廻転生してしまうのも心の問題があるからです。それを踏まえた上で、心理学的に六道輪廻を考えた方が妥当なのです。

■叶わなければ叶わないほど 更に期待は大きく膨らむという矛盾

    地獄という次元では、生命がいろいろなことを期待してしまいます。期待すればするほど極端に真逆の結果を得ることになるのですが、それはどうにもなりません。期待と正反対の結果で極限の苦しみを感じると、更に大きく強い期待をすることになります。そうするとさらに期待に見合った真逆の結果を得て、大きな失望を感じるのです。そのような悪循環で生きる次元を地獄というのです。地獄の生命が「何か食べたい」と期待すると、それが真逆になり、また「寝たい」と思うと、体中が燃えて重度の火傷と、さらに針で刺されるような激痛で寝るどころではなくなってしまう。あるいは「寝たくない」と思ってしまうと、麻酔をかけられたように自分ではどうすることもできずに寝てしまうとか--とにかく、わずかにでも期待することと真逆・正反対の結果を得てしまうのです。

■地獄では期待を諦めたところで寿命が尽きる

    やがてそのような不幸な次元の生命が、期待することを諦めたなら、「何も期待できない」と気づいたら、その次元での寿命が終わってしまうのです。しかし、それは簡単ではありません。気が狂うほど長い時間がかかります。地獄という次元に堕ちてしまった生命には、地獄から抜け出すことは途轍もなく難しいと説かれているのです。期待を作るのは自分の過去の業です。その業のエネルギー(パワー)が減ってきて、やがてエネルギーが切れると、期待することを諦めてしまうのです。この法則を昔の地獄物語に入れ替えてみましょう。ある人が誰かの首を斬って殺人を犯したとしましょう。その人が地獄に堕ちる。地獄の獄卒たちがその人の首を斬り落とす。そこで、またその人の首がくっつくのです。首を斬り落とさなくてはいけないので、地獄の獄卒はまたその人を虐めて脅して怖がらせて首を切断する。気が遠くなるほどの長い間、首を斬り落とされる恐ろしさと苦しみを感じたとしましょう。やがて、殺人を犯した悪業の力も無くなってしまうのです。それでその人はこのように考えます「首を斬り落とされてもまた生えてくるから、怖がることも心配することも無い」。彼に「首を斬り落とさないで欲しい」という切望感がなくなったのです。    そして獄卒が来たら「いつもいつもご苦労さまです。はい、お願いします」と首を差し出す。その瞬間で、その人の地獄の刑期が終わったのです。(喜んで首を差し出すならば、首を斬り落とす行為が人を苦しめることにならないので、獄卒たちにも面白くないでしょう)

■生命は今のいる場所に執着せざるを得ない

    ですから質問に答えるなら、肉体に執着のある人間は、昔の人々が描いた地獄の物語を見ると怖くなるということになります。仏陀の四聖諦の発見と説明によると、地獄に堕ちた生命もその命に執着・愛着を持ってしまうのです。それが因果法則です。地獄の生命はどれだけ地獄の苦しみに苛まれても、「生きていたい」「死にたくない」という気持ち(渇愛)を持っているのです。    

■生命は渇愛(生存欲)により、生きることを喜んでしまう

    「Yāyaṃ(ヤーヤン) taṇhā(タンハー) ponobhavikā(ポーノーバヴィカー) nandi(ナンディ)-rāga(ラーガ)-sahagatā(サハガター) tatra(タトゥラ) tatrābhinandinī(タトゥラービナンディニー), 渇愛とは、再生をもたらし、喜びと貪りを伴い、あちらこちらに歓喜するものである。」
    これがお釈迦様による渇愛の説明の定型文です。渇愛が輪廻転生を作るのです。渇愛によって「あぁ、これが良い」という欲も生まれてくる。それぞれの生まれる場所・次元によって満足・喜びを得るのです。皆さまはどうでしょうか?    人間に生まれてきて良かったと思っているでしょう。その気持ちは愚か者の証拠です。女は女に生まれてきて良かったと思い、男は男に生まれてきて良かったと思っている。ですから、猫も猫に生まれてきて良かったと思っているのです。渇愛があるから生に執着してしまうのです。

■苦しみの次元であっても、生存することから離れられない

    それなので、地獄にいる生命も「ここに生まれて良かった」と思ってしまうのです。それは渇愛があるせいです。地獄でも「生きることは何て苦しいんだ」と思うなら生存欲を捨ててしまえばいいでしょう。そうであるならば、悟る・解脱のために一番良い場所は地獄ということになります。なぜなら何一つも良いことが無く、常に苦しみを感じて生きているのですから。しかし、実際には地獄に堕ちた生命は嫌になるほど苦しむだけ苦しんだとしても、決して悟る・解脱することはできないのです。不可能なのです。もしかしたら私たち人間よりも、地獄に堕ちた生命たちは地獄での生を喜んで執着しているでしょう。それだから苦しみの連鎖が続くのです。
    では、人間はどうでしょうか?    人間に生まれたことにあまりにも執着してしまって、われら人間様は偉いのだと威張って生きている人は、どれほど自分や他人や社会に迷惑をかけているのかわかりません。執着のきつい人は社会からもイジメられることになります。

■結局、執着とは渇愛の仕業

    地獄のイメージを知識がたくさんある現代的に考え直してみると良いと思います。地獄はよくわからない。しかし、生命には様々な次元がある。ある次元に堕ちてしまったら、その次元に対して強い愛着が生まれてしまう。そして、その次元で「ここで楽に生きよう」とあらゆる希望・願望を限りなく作る。愛着があれば、自ずと希望・願望が現れるのです。皆さんが「人間に生まれて良かった」と思っていると、次から次に希望・願望が現れてくる。「たまたま人間に生まれただけ」という程度に思っている人にとっては、人間として生きることは大したことではなくなります。

■執着すればするほど限りのない希望が生まれてしまう

    ですから、地獄でもその生まれた次元に強い愛着を持っていて、それで「とことん楽に生きよう」と希望を作る。希望する度に、その正反対の結果が起きてしまう。それで相当な失望感・苦痛・苦悩という精神的ダメージを受ける。それは人間には耐えることができないほどの苦しみです。それでも死ぬことはなく、その次に希望を倍に膨らませてしまうのです。そうすると、また希望の正反対の結果になってしまう。更に希望を何倍にも膨らませていってしまうという終わりのない最低最悪の苦しみの悪循環に陥ってしまう。そのようにしか生きることができないのが地獄なのです。嫌になるほど苦しみを味わい続け、途方もない時間が過ぎ、やがて希望を持つことを諦めたところで地獄の寿命が終わって抜け出すことができるのです。決して堕ちてはいけない生命次元です。

■天国という次元の心理状態とは?

    では天国(天界)はどんな次元かというと、これも仏画に描いてあるような世界があるわけがないと私は思っています。博物館で奈良時代ぐらいに描かれた六道輪廻の古い仏画を見たことがありますが、そこには天国も描かれていました。それを見て、天国はとてもつまらないところだと思ったのです。絵を描いた人は、皇室や貴族ばりの華麗な生活様式が天界にあると想像して、勘違いして絵を描いていました。一般庶民はそれを見て、「あぁ、これが天国なんだ」と思うかもしれませんが、そうではないのです。単に日本文化だから、そのようなイメージになるだけです。インド人ならインド人が描く天国になってしまいます。どちらにしても人間の作ったイメージに過ぎません。

■天国では失望感が生まれない。楽しみを味わうしかない境涯

    天国というのは、そんな次元ではありません。天国とは、初めから希望通りになる次元なのです。希望が叶わなくて「あぁ、失敗した」というような失望感が無く、「これがあればいいのに」という苦しみが無い次元なのです。希望通りになるので苦しむ暇がないのです。例えば何か現象があって、それが楽しい。楽しいことが生きることになるのです。楽しいことでとても忙しい。経典に出てくる神々はたいへん忙しいと言うのです。本当は何の用事もありません。現代的な例えでは子どもがゲーム中毒になっているような感じで、簡単に思い通りになるのでいろんな楽しいことに中毒になっているだけなのです。ゲーム中毒の子どもがゲームを一旦やめて、宿題をやることは結構キツイのです。でも、やらなくてはいけません。それなので、いくらかの真面目な神々は、お釈迦様に会って対話したりしました。

■どんな希望も叶っていて悩みなく「欲しい」という期待を持たずに生きる

    ですから、大雑把に天国という次元では、自分のいる環境が楽しく感じる。あれが欲しいこれが欲しいと期待する必要が無くなってしまう。何かが欲しいと思うためには、まずそれが無いという悩みの状態が必要なのです。悩みが無ければ「欲しい」という期待は生まれて来ません。神々にとっては、あるものがとても楽しく感じられて、それ以外何も考えることができなくなってしまうのです。楽しいことだけがあって、それでふざけて生きている。地獄とは正反対の生き方になります。

■天国では楽しむことに飽きて つまらないと感じた瞬間に寿命が尽きる

    天国での寿命はどうなるのかというと、仏典に明確に書かれています。天国に長い間いると、楽しく無くなってしまう。つまり飽きるのです。楽しく無くなってしまっても、楽しみ以外のものはありません。別なものを生み出す能力もありません。楽しみしかない次元です。なぜなら気が狂うほど長い間、楽しいものだけに囲まれて生活していたのだから、楽しいこと以外はイメージすることすらできないわけです。それで「つまらない」と思った瞬間に寿命が終わって、瞬時に死んでしまうのです。次の瞬間にはもういないのです。天国にはお葬式はありません。遺体が無いからです。人間も死ぬ時に肉体も同時に消えてくれたら簡単ですがそういうわけにはいきませんね。

■心理学的に地獄と天国を観るとわかること

    ですから、地獄と天国の物語は、そのように心理学的に考えてみてください。「あれが欲しい」「これが欲しい」「あれが無い」「これが無い」という悩み苦しみで生きていると、その心の習慣(癖)で、次にどの次元に輪廻転生するかわかったものではないのです。これはかなり注意しなければいけません。「なぜ私には○○が無いのか」と怒りや嫉妬ばかりで生きていると、それは悪行為です。そういう心の習慣が影響して、次に地獄に堕ちたりするのです。例えば、モノを盗んだら地獄に堕ちると言うでしょう。盗むという行為は「あれが欲しい」「これが欲しい」「あれが無い」「これが無い」という心理状態の結果なのです。「なぜあの人には○○があって、私には○○が無いのか」ということで他人のものを盗む。その心理状態(精神)が、地獄という次元の心理状態と同様なのです。

■悪行為をする心理状態は地獄と同じ

    ということで、殺生するなかれ・盗むなかれ・邪な行為をするなかれ・嘘をつくなかれ、ということを仏教では注意しているのです。十悪を犯す精神状態が、地獄という次元の精神状態なのです。それはとても苦しい。例えば生命を殺す人は、気持ち良く・気分良く殺すことはできません。テレビで見たことがありますが、屠殺場で働く人や漁師たちも殺す瞬間に気分良く・楽しく・喜んでいる表情は見えません。殺すことに慣れているから、何のこともなく殺すことができるはずなのですが。

■畜生という苦しみの次元の一種では 常に死の恐怖感に怯える

    結論として、テーラワーダ仏教でも大乗仏教でも同様に描かれている地獄のイメージは、当時の人々が考えられた程度の物語であって、本当の地獄というのは想像以上に厳しい次元なのです。動物や昆虫などを含む畜生の次元も地獄(不幸な境涯)の一種です。動物たちを見てください。決して安穏・安心して生きていません。いつでも殺されるという恐怖・脅威をひしひしと感じながら生きているのです。その恐怖感は冗談ではありません。リスが木の実を取ってかじっている時でも、大きな鳥が来てパクッと食べられてしまうかもしれない。ですから、木の実ひとつでさえも安心して食べられないような次元なのです。

■どんな動物にも生きる問題があり 苦しみが尽きない

    草を食べる草食動物であっても「誰にも迷惑をかけず、草を食べることによって自然界の循環・バランスが保たれるから」といって威張って生活できると思いますか?    できません。象みたいな巨大な動物なら、他の動物に襲われて殺されるということは少ないかもしれませんが、象には象たちの苦しみがあるのです。体が巨大ですから、相当な量の草を食べなくてはいけないといった悩みはあります。しかし、象は森を破壊しません。その場所の草を根こそぎ食べたり、木の枝をすべて食べ尽くしたりはしません。枝を一掴み食べて、また違う木に行って枝を食べる。ですから、たいへんな距離を歩かなくてはいけません。また森の木が自然に枯れて死んでいったとしても、象が糞をしたところから新たな木の芽が出てきたりします。象たちは大量に草や木を食べているのですが、同時に森を守っているのです。水もたくさん飲まなくてはいけません。その水を得るために、ずっと歩いて水場を探し続ける。それだけでも大変です。もしかしたら自然にいる象には一度もお腹がいっぱいになったという経験は無いかもしれません。それから森にいる象は安眠・熟睡して寝られません。子どもの象は寝ます。一般的には立ったまま寝ると言われていますが、動物の中でもとても短い睡眠時間です。巨体なので水に入ったとき以外は横になることもできません。象の生き方は楽だと言えますか?    決して楽とは言えないのです。もし赤ちゃん象が寝たなら、群れの象たちは動かないで、赤ちゃんが起きるまでじっと待って守ってあげないといけません。その時は当然、餌を食べたくても取りに行けなくなります。
    動物の苦しみは人間が勝手に想像した苦しみではないかと反論があるかもしれませんが、動物たちも食べなくてはいけないから、そこで苦しみの問題が起こるのです。そういうことで、苦しみの次元である動物たちの畜生界を観察してみると、更に過酷な苦しみの次元である地獄が見えてくるのです。地獄とは心理学的な苦しみの世界なのです。カエルがヘビにひと飲みで食べられることが苦しみと言いますが、それは大した苦しみではありません。しかし、カエルは生きている間ずっと怯え続けなくてはいけない。それはどれほどの苦しみでしょうか。

■人間の次元は苦しみと楽が混在する

    仏教では天界と人間界が「sugati(スガティ)・善い生まれ(善趣/善道)」だと言っています。だいたい同じ徳で人間にも天にも生まれることが可能です。人間には「殺される」という恐怖感・怯えが極端に少ないです。昔、原始時代では殺される恐怖感があっただろうと妄想しますが、それでも人間は他の動物から身を守ることができたのですから、それほどの恐怖感は無かったでしょう。現代では殺されるという恐怖感は、ほとんど感じないでしょう。

■執着が無ければ心は清らか

    質問には、もうひとつ疑問が書かれていました。「自分の肉体への執着が無ければ、地獄に堕ちてもあまりつらくないのでは?」ということです。肉体に対する執着が無ければ地獄には堕ちませんよ。自分の体に執着が無いということは、それは素晴らしいことです。その時点で心が清らかになっています。心が清らかであれば、地獄に行きたいと熱望しても、因果法則によって絶対に地獄へは行けないのです。


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