アルボムッレ・スマナサーラ
【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「仮想敵を作ることはこころを汚す?」です。

[Q]

    趣味で居合道をしています。仮想敵をイメージして、突いたり斬ったりするのですが、ふと、こんなことして良いのかな、と思い始めずっと疑問に思っています。仏教の立場ではどうなのでしょうか?    

[A]

■そもそも敵のイメージを作る必要はない

    平和で安穏で慈しみの心で、生命を慈しんで、自然を大事にして、何にも迷惑を掛けないように生活することが仏教的なんです。だから厳密には武道の世界とは比較できないですね
    〝誰かを倒す〟というイメージでやっているということは、それほど清らかなこころは生まれないと思います。ただ、試合では実際の相手と競うわけですが、対処の仕方によってはそれほど悪くはないと思いますよ。「相手を倒してやるぞ!」ではなくて、お互いの腕がどこまで上達しているのか、誰が速いのかとか、そういうふうに比較する気持で臨むならそんなにこころは汚れないと思います。それだけですね。だから「対戦相手のおかげで」という気持ちが必要なんです。相手がものすごく上手で、自分が負けても悔しくなるのじゃなくて「まだまだ、勉強するところがいっぱいある」とか「あの人はすごい能力を持ってるから、自分ももっと腕を磨かなくては」と、ポジティブに見なくてはいけないんです。自分が勝った場合は相手に感謝して、「お互いよく頑張りました」と、友情を築くことができればいくらかはこころが汚れないだろうと思います。
    そもそも、日本文化では自分を戒めるための、人格をしっかり作るためのプログラムの一つとして武道を使っているわけですからね。いまさら剣を持って人を殺しに行くなんてことは無いんだから、一つのアートとして見た方がいいんすよ。戦いじゃなくて一つの芸術。あるいは一種のフィジカル・トレーニングですね。普通のフィジカル・トレーニングは、まず身体作りのことが多いですが、日本の武道では精神のトレーニングも必要なんです。だから、身体を使った文化的な価値があるものだと思ってやればいいんじゃないでしょうか。
    試合の時は、試合の相手に対して慈しみを持つということで。ただ、仮想敵のイメージを作っても、相手は実際は攻撃してこないんですから、自分の形を磨くだけでしょう?    本当は仮想敵ってあまり要らないんですよ。自分でいろんな技や形を、繰り返し繰り返し練習すればいいだけ。敵のイメージは作らない方がいいと思いますね。



■出典    『それならブッダにきいてみよう: ライフハック編2』
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