島薗進(東京大学名誉教授)
ジョナサン・ワッツ(INEB理事)

日本における仏教と社会の関係、そして「エンゲージド・ブッディズム」とは何か。そもそもの定義や具体的な出来事、歴史を紐解いていただきながら全体像を知り輪郭を描き、その意義と現代的な課題を、エンゲージド・ブッディズムに詳しいお二人に伺いました。全8回の第6回。


第6回    エンゲージド・ブッディズムのプレーヤー


●社会参加と仏教への関心──2つのステップ

ワッツ    日本と諸外国の違いのひとつは、日本ではエンゲージド・ブッディズムの人のほとんどが出家していることです。しかし、他の国、特に南アジアや東南アジアでは、大多数が在家です。これは、私が先に指摘した、これらの地域の戦後の民主化運動において仏教が果たした役割と関連していると思います。一方、日本では戦後、社会や社会運動が非常に世俗化しました。日本の僧侶がエンゲージド・ブッディストになるには、社会への関心に一歩踏み出すだけでいい。しかし、日本の一般市民がエンゲージド・ブッディズムになるには、社会への関心と仏教への関心の2つのステップが必要です。これはとても大きな2つのステップです。
    一方でタイやミャンマーやスリランカの若い人の多くが仏教のアイデンティティを当たり前に持っている。そして社会参加意識が強くてNGOをやっている人が、そこに精神的な紐帯(ちゅうたい)を求めたとき、仏教という共通項がある。それがエンゲージド・ブッディズムの形をとっていく。西洋では、正義感があってマインドフルネスとか瞑想に興味がある人は多い。そういう人たちが社会問題や個人的な諍(いさか)いをどう調和したらいいのか、と考えたときにエンゲージド・ブッディズムに興味を持つ。だからそういう国ではエンゲージド・ブッディズムをアピールしやすいです。だけど日本では、若い人は仏教に興味ないし、社会正義も他人事。

島薗    今おっしゃったような社会参加の文化というか、そういう関心を持った人というのは新宗教の中にもある程度いるんですね。ところが、新宗教も伝統仏教も、やっぱり集団が壁を作ってしまっているところがあるように感じます。外の人が入りにくい。伝統仏教教団は世襲的な住職家族以外の人が参加できる活動形態がひじょうに少ない。新宗教の場合はやっぱり、ある種かなり強い信者としてのアイデンティティを持っていて、指導者に従うというのでないと参加できない。ということで、そこに壁ができてしまう。ただ現代はそういう壁を越えて活動したい時代ではないでしょうか。