【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】
皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「悲しいという感情」についてです。
[Q]
悲しいという感情は悪感情なのでしょうか? 家族や友人・好意を持つ人との離別の際に感じる「悲しい」は、私は単純に辛いので嫌いな感情です。それと、悲しくて苦しいという状態にならないための方法を教えてください。
[A]
■完全に清らかな心で生活はできない
とても明確な質問ですね。「悲しい」という感情は悪感情です。でもがっかりする必要はありません。なぜならば私たちが生きてゆく上でいろいろ感情を持って、悪行為も善行為もしながら生きているからです。完全に清らかな心で日常生活は送れない、ということを理解しておきましょう。だからといって、悪に染まっても仕方ないという言い訳は通用しません。私たちはできるだけ悪感情を控えて、良い感情で生きるため努力しなくてはいけないからです。仏教徒であろうが何者であろうが「良い人間にならなくてはいけない」というのが基本なのです。この機会に「悲しいということは悪感情」だと知ったからといって、今後悲しみに陥らないという保証は全くありません。わかっていても悲しみに陥るのが普通の人間なのです。
なぜ「悲しい」という感情が悪感情なのでしょうか? それは自分の周りに、期待とは違う、希望していない、あって欲しくない出来事が起きた時に生まれる、ネガティブな感情だからです。事象に合わせていくつかの感情が生まれます。親しい人が亡くなるとそれは悲しみになります。大事にしていた物が壊れると、悲しみではないけれど似た別の気持ちになります。旅に出るのに飛行機に乗り遅れたら、その時も「悲しい」とはまた別の嫌な気持ちになるでしょう? その都度その都度、状況に合った「なんか嫌な気持ち」が生まれて来るのです。
■怒りを観察して、理性で落ち着きを保つ
たとえば、予約した飛行機に乗り遅れたら朝寝坊した自分に腹が立つのです「なんてだらしないんだろう! もっと早く寝ておけば良かったのに」とか、後悔の連続でしょう。それはもう悪感情です。期待が外れたら生まれて来る感情なのです。
怒りにはたくさん種類があるのですが、アビダンマでは四つに分けています。まず、怒り(瞋 dosa)。怒りというのは好ましいことが起きていない・望まないことが起きたということです。それから嫉妬(嫉 issā)。そして物惜しみ(慳 macchariya)。欲しいものは持っているけれど、人に分けたくはないという気持ち。最後にもう一つ、後悔(悪作 kukkucca)。後悔は、過去の出来事について「こうした方が良かった」「こうやらなければ良かった」と、とっくに終わってしまったことについて怒りを増幅させるのです。その四つを憶えておけばよろしいと思います。生きているといろいろな感情が生まれますが、それを四つのファイルのどこかに区分して、都度、確認して欲しいのです。
こころを清らかにした人・理性がある人は、親しい人が亡くなっても悲しみに陥らないでいることができます。「死ぬ事は当たり前の出来事なのだ」と理性を使って判断します。心が痛いのはその人と私の関係があったからで、それもここで切れてしまう。でもそれは世の中では普通のことで、永遠不滅にお世話になることはできないのだ。こうしてどんな現象も、時間が経過することで変わってゆくことを理解して、落ち着かなくてはいけないと頑張ることができます。
お釈迦様が般涅槃(入滅)される時、まだ悟っていないお坊さんや比丘達は、耐えられずに泣いたりわめいたりして悲しみに陥りました。一方、阿羅漢達は何のことなくじっといました。「一切現象は無常である」と落ち着いていたのです。「無常であって欲しくない」ということは期待できません。
智慧のある人がどのように観るかというのを違うたとえをしてみるので、よく憶えておいて下さい。夏、八月の最も暑い時に「ああ、なぜこんなに暑いんだ!」とビックリしますか? しませんね。誰も気にしません。なぜなら夏が暑いのは当たり前だから。涼しくするための工夫はしますが、驚き嘆いて怒りに狂うことはありません。自然はそういうものなのですから。理性で判断するととても落ち着いていることができます。
■出典 『それならブッダにきいてみよう: こころ編5』
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