国府田 淳
(クリエイティブカンパニーRIDE Inc.Founder&Co-CEO、4P's JAPAN Inc. CEO[Pizza 4P's Tokyo@麻布台ヒルズ])
気候変動、戦争、格差、パンデミック、ストレスや精神疾患の増加など不確実性が高まり、心安らがない状況が続く昨今。外的な要因に振り回されずに地に足をつけて生きたい、今後のビジネスや生活を支える羅針盤を手に入れたいと考えている方は多いと推察されます。
そんな時代だからこそ、原始仏教がますます有用になるのではないでしょうか。私は日々のビジネスシーンや生活の中で、それを実感しています。
本連載は原始仏教とビジネスの親和性を描くことで、心のモヤモヤや不安を和らげる糸口を見つけてもらおうという試みです。(筆者)
第8回 ビジネスにつきものの“想定外”に対処する魔法の杖①苦諦
1 ビジネスに苦労はつきもの
ビジネスは基本的にエキサイティングで楽しいですが、その裏ではぶっちゃけ苦しいことが本当にたくさんあり、思い悩むことも多々あります。前述の倒産騒動はもちろん、長年苦楽を共にしてきた仲間との別れ、メンバー間の批判、投資先の倒産、新規事業の失敗、詐欺まがいの投資話、ストレスによる身体の不調など、枚挙にいとまがありません。
一方で業績が好調で調子が良い時も、来年は下がったらどうしよう、いつまでこの状況が続くのだろうと、常に不安が付き纏います。かといってその危機意識が次へのアクションにつながるかというと、やはりどこかで慢心しているのか、なかなか難しいものです。調子が良いのに不安が拭えないという、そう鬱のような状態になり心が落ち着きません。
つまり、悪い時は苦しみもがき、良い時も不安で、結局はいつでも「苦」とともにあり、まさに「四苦八苦」した毎日です。しかしながら仏教のすべてが「苦」であるという教えを知り、瞑想によりその感覚を身体化させていくにつれ、それらをある程度許容し、客観的に観察できるようになりました。ちなみにこの「四苦八苦」という言葉は、ご存じの方も多いと思いますが、仏教用語です。仏教ではそれぞれを明確に定義しています。
<四苦>
「生・老・病・死」
<八苦>
・愛別離苦(あいべつりく) →「愛する人との死別や別離」
・怨憎会苦(おんぞうえく)→「嫌いな人とも顔を合わせることがある」
・求不得苦(ぐふとくく)→「求めても思いどおりに得られない」
・五蘊盛苦(ごうんじょうく)→「肉体と精神が思うがままにならない」
四苦は生まれる、老いる、病む、死ぬ、です。人間の生存に関わる基本的な4つの苦ですね。仏教の考えでいけば、生きる根源が苦であり、一般社会では喜び、祝うべきものとされる生まれること自体が、たいへんな苦の始まりなわけです。老、病、死はわかりやすい、苦そのものですね。人間がなんとしてでも避けたいと思ってしまうもの。その証拠に再生医療やがんの特効薬などに大金を注ぎ込んだり、自分の身体に合っているかわからないサプリを飲み続けていたり…。もちろんしっかりした研究に基づくものもありますが、詐欺まがいやインチキなものが横行しているのも事実ですし、それだけニーズがあるということでしょう。死にたくない気持ちや死への恐怖は、ほぼ誰もが抱えているものだと思います。
八苦の後半4つは、我々の日常にとても馴染みの深いものばかりです。愛別離苦は親兄弟や妻子、子ども、恋人などをはじめとする、親しい人との別れです。これらは一般的に耐えがたい苦しみを伴いますが、より苦しさを増長させてしまうのが愛着・執着です。子どもに執着して、意識的にも無意識的にも自立をはばむ毒親などという言葉もありますし、親が死んだ悲しみがなかなか癒えずに精神に不調をきたす人も少なくなく、グリーフケアの大切さが謳われています。しかし、仏教に照らし合わせて考えてみれば、誰ともいつかは別れの時がやってきます。愛する人との別れはとてつもない悲しみを伴いますが、ある意味必然であり、乗り越えなければならないことです。また乗り越えられるように世の中ができているとも思えます。怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦も、いわゆる「日常あるある」で、ビジネスシーンでもよく遭遇する苦です。
2 乗り越えるために、「苦」をよく知り分析する
なぜ、こんなにも苦しみに遭遇するのか。なぜ、こんなにも生きにくいのか。ビジネスもそうですし、ただ「生きる」ことを考えるだけでもそうです。その理由は仏教が説く縁起や無常を考えればわかります。そもそも、苦とはなにか。「苦」の意味するところやその対処法が、仏教ではきちんと説明されています。ブッダが悟りをひらいた後、初めて語ったとされる初転法輪にある四聖諦(四諦)という教えですね。四聖諦は世の中の一切が「苦」であることを示し、その原因や対処として日常で実践するための行動指針までを示してくれる、実に論理的で美しい考え方。「諦」とは真理を意味し、以下のような順番で理解し、実践が進んでいくものとされます。
苦諦(くたい):この世の一切は苦である。
集諦(じったい):苦しみの原因は、煩悩により生じる。
滅諦(めったい):苦しみから自由になるには、煩悩を滅する必要がある。
道諦(どうたい):煩悩を滅し、真理を得るために八正道を実践する。
私自身の仏教理解も、苦しみへの対処も、上記の順番で進行中です。ブッダの智慧は真理なので、仏教が説く苦の乗り越え方は、もちろんビジネスについてまわる苦の乗り越え方にも通用します。まずは苦諦、「この世の一切は苦である」と本当に理解するところが第一段階です。かつて、苦だらけの日常でもがいていたころ、私は仏教を知って、まず、苦を以下のように分類して考えることにしました。
1 生命の成り立ちにおける「苦」
2 一般的な苦しみという意味の「苦」
3 物事はうつろい、思いどおりにならない「苦」
4 確固たる実態がないという「苦」
5 死に向かう存在である「苦」
3 この世のすべては「苦」
テーラワーダ仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老の著書『苦の見方 』(サンガ新社)を読むと「生物の根源は“苦を変える”こと。生物が生きるための行為はすべて感覚で行われており、その感覚が“苦”である」、というふうに書かれています。私なりにこうとらえています。
しんどい=苦だから大きく息をする
おなかが空いた=苦だからご飯を食べる
眠たい=苦だから寝る
お金がない=苦だから稼ごうと仕事する
(立っていて)足が痛い=苦だから座る
しかもその苦は消しているのではなく、他の苦に変換されているだけです。
呼吸をする→苦しいから吐く
満腹になる→苦しいからエクササイズをする
寝る→苦しいから起きる
仕事をする→苦しいから休む
座る→苦しいから立つ
しかもその苦しさが次の苦しさに循環していきます。
呼吸をする→苦しいから吐く→苦しいから吸う
満腹になる→苦しいからエクササイズをする→おなかが減るから食べる
寝る→苦しいから起きる→眠たいから寝る
仕事をする→苦しいから休む→仕事を進めないといけないからする
座る→苦しいから立つ→立っているとしんどいから座る
基本的な日常動作を例にとっても同じです。生きる根源的な活動は「苦」で成り立っており、その「苦」が他の「苦」に変換されることが循環して、生命が成り立っていることがよくわかります。
とくに曲者なのが私の分類の3つ目に挙げた“物事はうつろい、思いどおりにならない「苦」”です。まさにビジネスはその通りです。面白いぐらい、自分の思い通りになりません。ケースにもよりますが、利益を得たい人と得たい人が交渉するわけですから、そうそう自分にばかり都合よく運ぶはずがありません。縁や運、潮目みたいなものも影響します。今は以前よりもそれが心身に沁みついてきたので、苦しいこと、辛いこと、悲しいことが起きた際も、「仕方がない」と冷静に捉えることができ、心の平穏が保てるようになりました。また、なんでもかんでも我を通すのではなく、相手を理解しようと努めるようにもなりましたし、少し引いた視点をもつことができれば、関係者と共感するポイントを見つけやすくなり、自分、他者、社会の三方よしの落とし所を見出すこともできるようになる。経験の中でその実感はだんだん確信に変わっていきました。
4つ目の確固たる実態がないという「苦」は縁起や無我、空に相当しています。ブッダは物質、感覚、識別、意志、意識の5つの集合要素がそろってはじめて、「私」という現象が成立すると説いています。そのどれか一つでも欠ければ「私」というものは存在できないし、そもそも存在というのは一瞬ごとに生まれては消えを繰り返して成立するものなので、絶対的な「私」はどこにもいない。「いやいや、私はいるだろう!」と思うのですが、実は私たちはとんでもない変数の中で「成り立って消え」を繰り返している存在だと仏教に教えられ、「なるほど、思い通りにならないのは当然とも言えるな」「存在って奇跡的なことだな、ありがたいな」と、すっかり理解できないまでも、感謝を感じるようになりました。
5つ目は、私たちが普段けっして考えないで生活している「死」に向かっていることです。どんな生命もいつかは必ず死ぬのであって、常に死に向かっています。私も昔ほどは思わなくなっていますが、やはり死は怖いです。ですが、縁起や無常といった仏教の考え方に照らせば、存在はうつろいゆくもの。死に向かって老いていくのは自然なことなのです。むしろ、流れに逆らおうともがくからこそ苦しくなります。
このように、さまざまな「苦」について見ていくと、確かに人生は「苦」に溢れていることを実感します。アメリカの思想家ラルフ・ワルド・エマーソンの「恐れは常に無知から生じる」という格言が広く知られているように、人間は得体の知れないものに恐怖を覚えます。進化心理学でも、無知からくる恐怖は人間が進化の過程で、危険を予測し、回避するための生存戦略として遺伝的に受け継がれてきたとされています(ここでの無知は単に物事を知らないという意)。
私自身の経験でも、苦を種類で分けて、それまでよりきちんと理解・分析することで、むやみに怖がったり嫌悪したりがなくなったと思います。ビジネスでなにかうまくいかないことがあっても「意見が違って当たりまえ、利害関係があり、お互いの立場が違うのだから」と、怒りの気持ちでなく受け止めることができるようになりました。また、死に向かっている存在という苦を意識した際、私の場合は「どうせ死ぬんだからどうでもいいや」という方向ではなく、「どうせ死ぬまでの人生、気持ちよく堂々と生きたほうがよいではないか」という考えになっていきました。そう考えられるようになってからは、ビジネス上の欲と欲のぶつかり合いみたいなことも減り、信頼できる取引先や仲間とお互いが成長できる仕事が自然とできているように思います。
埼玉県秩父の山寺 大陽寺にて(撮影=國府田淳)
第9回に続く
第7回 国府田淳 「原始仏教に学ぶ 2030年代のビジネス作法」⑦
第9回 ビジネスにつきものの“想定外”に対処する魔法の杖②集諦・滅諦 (2025年8月21日(木)公開予定)