【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】
皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日は「人前で緊張せずにしゃべりたい」という相談にスマナサーラ長老が答えます。
[Q]
人前でしゃべるのが苦手です。緊張してしまい、頭の中が真っ白になってしまうことが多いです。どうしたら直るでしょうか? 困っています。
それから、日々の中で「慈しみ」の心を持って生活をしようと決めても、いろいろなことが起こると、どうしても感情に引っ張られてしまいなかなか難しいです。慈しみを持つことがこんなに難しいことなのかと感じています。こんなに大変なものなのでしょうか?
[A]
■「自分のことを気にしすぎる」弊害
質問は二つですが、これからも問題がいろいろと出てくると思います。今感じている問題も、他にもっとたくさんあるかもしれません。とは言え、原因はたったひとつです。そのたったひとつの原因によって、いろいろな病気が発症してしまうのです。では、その原因は何なのかというと、「自分のことを気にし過ぎる」ということです。他人のことは何も考えない、自分の事ことばかり考えている。それに気づいてもいない。自分は他人のことを気遣って考えているつもりですが、本当は考えていません。
「自分(私)」というのは社会や世界があって、外界があって成り立っているものです。ですから、自分のことばかり気にし過ぎると、外との関係がある度にトラブルが起こってしまうのです。これは人としゃべる時の問題だけに限りません。もちろん、人としゃべるということも外と関係を持つことです。そこでトラブルになるのは自分のことを気にし過ぎるからなのです。
慈悲の瞑想の実践も同じで、慈悲の心で生きてみようと思ったとしても、慈悲も外界との関係で成り立つものですから、自分のことを気にし過ぎるとバランスが崩れるのです。天秤で例えるなら、自分という一方にだけ錘を置いて、相手には重みが全く無い。それでは関係が上手くいくわけがありません。バランスがとれていないと関係は上手くいかないものです。
ですから、いろんな人間関係、社会との関わりが出てくる度に、バランスを崩した関係から「困ったな」という事態が現れるのです。難しいかもしれませんが、これからその解決方法を答えます。よく憶えておいてください。
■「自分はいない」「私は虚空である」と念じてみよう
答えとなる処方箋は「自分はいない」と思うことです。「私とは空(くう)であって、存在しない」と理解する。「空」の意味は「虚空」(中が無い、カラ)という事です。「無い」のです。それを念じてみる。これにはレベルがあります。「自分は空である」という思いを確立することは超越した精神状態なのですが、まずは俗世間の知識レベルから始めなくてはいけません。
まず「私は虚空である、存在しない」と言い聞かせてみます。何度も念じて言い聞かせてみると、本当に生きることがすごく楽になっていきます。様々な問題が起こるのは「自分がいる」という前提があるからです。この解決方法は決して一時的な方法ではありません。根本治療の方法を教えています。
「私とは虚空」「私は存在しない」「自分はいない」と言い聞かせることで、心が変わっていくのです。心にある自分という意識(自我の錯覚)が減っていくと、外の世界があっても自分とぶつからなくなっていきます。なぜなら、ぶつかる対象の自分が薄くなっているからです。例えば、ここにお鈴と鈴棒(ばち)があります。鈴棒を空中で振ったとしても何にもぶつかりません。その空間には何もぶつかるもの(対象)が無いからです。しかし、鈴棒を振り下ろしたところに、お鈴があったら音が鳴ります。うるさくて大変です。
実在しない自分がいると勘違いしているからこそ、外界との関係でいつでもガンガンぶつかり合って、ひとつどころではなく、あらゆる問題を引き起こしているのです。ですから、あえて「自分はいない」と念じてみる。まずはそのレベルで頑張ってみてください。
■「私」がいなければ、価値は成り立たない
もっと上達したレベルもあります。例えば、私が他人を見て「かわいい人だな」と思う。それは「私がいる」と思うから現れる感情(現象)です。ここに私がいる、私に人が見える、それで私が「かわいい人」だと判断する。では、私がいなかったらどうなるでしょうか?「かわいい人」がいなくなってしまうのです。評価の単語が消えてしまう。価値が成り立たなくなるのです。
次に、私がいて「かわいい人」だと思うと、そこから私の態度も変わってしまいます。その人に対するしゃべり方や声の調子・対応などが、その判断に基づいて起こることになります。それでは相手との関係が上手くいくわけがありません。例えば犬を見て「あぁ、カワイイ」と頭を触ったら噛まれたり、吠えられたりする場合もあります。私が勝手に「かわいいワンちゃんだ」と判断しても犬には関係ありませんね。ここでトラブルが起きてしまうのです。犬からすれば、「勝手に決めつけるな」と思っているでしょう。
ですから、瞑想の言葉として「私は虚空である、空である、無い」というふうに念じてみるのです。英語では、「vacuum(真空)」「space(空間)」「nothing(無い)」「nothingness(存在しない)」「void(虚空)」といった単語があります。「自分は虚空である」と言いましたが、虚空というような専門用語でなくても構いません。自分が理解しやすい単語でいいのです。その際、これは私たちが毎日やっていることと正反対のことをやっているのだ、と理解しておいてください。
■「自分探し」から争いが生まれる
皆、何かしら「私は何者か?」と探し求めています。自分は何か偉い人物・尊い存在であると思っているのです。いわゆるアイデンティティ(自己同一性、変わらない自分)を強化したくて、安定させたくて必死です。皆、愚かで無知なのです。無知の結果は当然、自業自得なので、人生の道のりは何ひとつ上手くいかなくなります。「自我」を追い求めているせいで世界はハチャメチャ、苦しみから苦しみへ、悩みから悩みへと恐ろしい状態です。自分のアイデンティティを掲げ、世界を相手に闘うのです。家族同士で闘って、社会とも闘う……。
ですから、それとは全く正反対の道として、「私は何者にもあらず」と理解する必要があります。事実、私とは何者でもありません。最初はすごく実践しにくいでしょう。それで構いません。なぜ実践しにくいのかというと、自分が自分のことを偉いと思っているからなのです。実践すればそういう感情・事実を発見し、智慧が現れてきます。
■自分がいなければ 他人もいない
「自分は虚空である」「私は何者にもあらず」と念じてみると、少しずつ自分を気にし過ぎることが減ってきます。「自分」という自我意識を気にしなければ、全然問題は起こりません。そして、智慧が現れてくるにつれて、「自分がいない」のと同じように「他人もいない」ということになり、そうすると「あぁ、この人は怖い、ヤバそうだ」と思うことも無くなってしまいます。怖い・ヤバそうと思うのは、自我があるからです。自分という立場から見れば、相手が怖い・ヤバイという印象になり、そこから、更に妄想を掻き立てて、場にそぐわない・TPO(時と所と場合)に合わない行動をしてしまうのです。
自分が無ければ他人もありません。それであらゆる問題はすべて消えてしまうはずです。普通の生き方では、苦しみばかりです。失敗ばかりです。日々、ストレスが溜まる一方です。それがこの実践をすると反対になるのです。苦しみが消える。失敗が消えてしまう。ストレスは溜まらなくなる。すごく穏やかな精神状態でいられます。仏教的な解決方法とは、そのような実践の仕方になります。
■一時的に投影される「自分」
一応、それで質問には答えました。ですが少し付け加えます。自分は基本的にいないのですが、例えばここに突然子供が入ってきたとしましょう。私はその子が見える・聞こえるということで、人がいると認識します。そこで一時的な自分が現れるのです。相手に適した自分というのが一時的に投影されるのです。問題は起こりません、大丈夫です。子供という認識が現れたら、それに合わせて必要な対応・一時的な自分を投影する。その子が消えたら、投影した自分も消えてしまう。持ち運ぶ必要はありません。
例えば、子供を相手にして一緒に遊んだりしている時に、突然お年寄りが来たとする。そのお年寄りに向って、「○○ちゃん」と子供と同じように声をかけてしまったらマズいでしょう。子供に対するのと同じ態度を目上の人に取ってしまうとおかしなことになりますね。ですから、子供を認識した時にはその時必要な自分を投影し、次の認識が現れたら、また別な自分を投影して映すのです。そのように対応して、次の認識が入ってきたら、また違う自分を投影して映し出します。
■まっさらなスクリーンでいること
ということで「自分」とは、どんな映像でも映すことができる白いスクリーンでなければいけません。もともとスクリーン自体に画像があったらどうなるでしょうか? スクリーンに青や赤、あるいは風景の画像とかが印刷されていて、派手な色を持っているとしたら何も映せないでしょう。映し出すことは可能ですが、何が投影されているかわかりませんね。よく言う「自分を消す」というのは「白いスクリーンになれ」というような意味なのです。動画を映すことも、静止画を映すことも、チャートを映したりすることもできる。どんなものでも映し出せるのです。なぜならスクリーンは自分では何も持っていないからです。もともとそこには画像が無いから、入力によって様々なものを映し出せるのです。
私たちは死ぬまで世間で過ごさなくてはいけません。生きるという事は、他の生命と関係を持つことです。その都度、各生命に対してその瞬間ごとの自分を投影できるようになってください。生命との良い関係の秘訣はそれだけです。外の世界や世間を直そうとすることではありません。スクリーンに貼りつけている画像(自己イメージ、自我)を消してください。
■話すべき内容は「その場」で決まる
人と話しをする時にも同じ方式が使えます。人や皆の前でしゃべる場合は、人々の数や年齢などによっても変わりますが、だいたいパターンは知れています。たいてい決まったことをしゃべるだけですから思うほど難しくありません。
例えば、学校の教師たちはたくさんの生徒にしゃべっています。しかし、それは専門の世界であって、何をしゃべるべきなのかという内容は決まっているのです。小学生の子供たちに「あなたたち、アメリカ大統領のあの発言をどう思う?」なんてことは訊かないでしょう? それは管轄外の内容ですから、子供たちに向けて何をしゃべるべきか、という事は決まっているのです。あるいは、おじいちゃんおばあちゃんたちとしゃべることは大概テーマが決まっています。会社でしゃべる必要がある場合も、どんな目的・テーマでしゃべるべきかということは決まっているでしょう。
法話会や瞑想会には、様々な年齢・職業の方が集まっています。恐らく仏教の話を聞きたいと思って来たのであって、漫才を聞きに来たわけではないでしょう。ですから、話すテーマは決まっています。私の仕事は、できるだけ仏教をわかりやすくしゃべる事で、皆さんの仕事は私が言っていることをどう理解すればいいのかと頑張ることです。そこで、理解できなかったことは質問すればよろしいし、私の説明がわかりにくいと思われるところがあったなら、別な言葉に言い換えて説明すればいいことです。簡単な話です。
例えば私が法話会で経済学の話をしようとしたらものすごく場違いでしょう。TPOに合っていません。そんなことをしたら大失敗に終わってしまいます。もし自我があったらそうなってしまう危険性があります。「オレは経済学も学んでいるから、それをここでも披露してやろう」と思ってしまう。そんなのは場違いでしかありませんね。
■ただ、するべき行為があるだけ
そういうことで、「自分」という固定した画像が無ければ、物事は正しく映し出されるのです。人と話をする時に「私がしゃべっている」と思ったらアウト、「〇〇の人々にしゃべっている」ということもアウトなのです。なぜならば、そのように思う時は、固定した自分という画像が居座っているからです。そうではなく、しゃべるべき内容に沿って、それに適したアイデアを組み合わせればいいのです。自分を捨ててしまえばいたって簡単にしゃべることができます。
例えば私が何かしゃべる。すると相手から「あなたの意見は間違っている。あなたの意見には大反対だ。全く勘違いをしている」と言われたとします。もし「私」がいると思っていたら最悪です。「あぁ、あんなこと言われた」と落ち込んでしまって、「私はダメだ。ちゃんと調べてしゃべったのに否定された。あぁイヤだ」と落ち込んで「私」が壊れてしまうのです。「私」が無かったら相手の意見に対して「あぁ、そうですか」という反応で終わってしまいます。それから、「どの点に反対ですか? どこが間違っていますか?」と訊けばいい。次は相手が説明する番です。そうすると結局、私の勉強になります。もし、相手の意見を認めないのであれば、こちらもなぜ認められないかと説明して、それで理解し合って仲良くすればいいのです。上手くいきます。いつでも邪魔するのは「私」「自分」という自我なのです。
これは余計な説明だったかもしれませんが、「自分はいない。従って、他人もいない。ただ行為がある」それだけです。上手く行為が機能するようにしてください。
■差別を無くし、区別能力を育てる「慈悲の瞑想」
慈悲の瞑想をする場合でも、自分のことを気にし過ぎるから、相手を慈しむことができなくなってしまうのです。自分を捨ててしまうこと。生命としてみればみんな同じです。人間であろうがアリであろうが同じ命です。そう思うことは簡単なはずです。そのように平等に観られる世界は、すごく楽しい世界なのです。
慈しみが出てくると、あの人は偉い、この人は良くない、なんていう差別的な見方は出て来なくなります。しかし、何でも平等で均等に見えてしまうということでもありません。人の性格の差が理解できるようになるのです。要するに、差別は一切無く、見事に区別することができます。各々の人が、自分の持つ性格によってどのように生きているのか、ということも理解できるようになります。区別できるのは智慧の働きです。慈悲の実践はその智慧を育ててくれます。慈悲の実践をしない時は、他の生命を区別しないで差別することになるのです。差別とは、自我という錯覚を基準にして他を良し・悪し、善・悪などに判断することです。
慈悲の実践をする人は、最初から区別能力を育てなくても結構です。差別する傾向を無くす努力をするべきです。ですから最初はすべての生命を平等に慈しむのです。それができたところで区別能力が付いてきます。わかりやすくするために、ひとつの例を出します。アリを観察するとしましょう。アリが百匹くらい列を組んで丁寧に動いているのを観察します。どんなアリも同じに見え、前にいるアリと後ろにいるアリの差はわかりません。それでみんな同じく見えるのだ、区別はできないと決めなくてはいけないのです。しかし、観察能力が上がったところで、「アリは皆同じだ」という気持ちが変わってゆくはずです。精密に観察すると一匹一匹のアリも自分の性格を持っていることがそれなりに見えてくるでしょう。それは区別能力が上がった、ということです。この順番で、慈悲の実践を行います。まず、「生命はみな平等である」という立場で慈悲を実践します。それから「平等だが、個人個人の差があるのだ」と理解していくのです。
■「自分を直す」ではなく、「きちんと観る」こと
慈悲の実践が大変なのは当たり前なので気にしないでください。それは自分に問題があるという証拠ですから、引っかかっている問題を自ら発見すればいいだけです。誰だって問題を抱えていますよ。ただ淡々と「問題はこれだ」と発見すればいい。問題が見えてくればくるほど、問題は消えていきます。無理をする必要はありません。決して自分を直そうとする必要もありません。ただ、「問題は何なのか?」と見るだけです。見る時はしっかりと自分の経験として見て欲しい。そして、問題が見えてきたら、見えた分については問題が自動的に消えていくのです。「自分を直そう」とする努力は間違いです。そういうアプローチは俗世間でしか成り立ちません。
真理の世界では「自分を直す」ということは成り立ちません。「自分を直す」という発想自体も自我の錯覚から出てくるものなのです。ですから、自分を直すどころではなく壊す結果に終わってしまいます。真理の世界では、「見る(観る)」「きちんと観る」「直接観る」それで終わりなのです。
■出典 それならブッダにきいてみよう: ライフハック編1 | アルボムッレ・スマナサーラ | 仏教 | Kindleストア | Amazon