【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】
皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「認識を「ひとまとめにしたい」理由」です。
[Q]
「肉体の感覚は、バラバラに起こります。眼の感覚、耳の感覚、鼻の感覚、舌の感覚、身体の感覚、それぞれ互い違いでバラバラに起きます。
脳の成長とともに、互い違いでバラバラに起こる感覚を、ひとまとめにしたいという執着が生まれます。そこではじめて、「私」という概念が現れます。」(スマナサーラ長老著『執着しないこと』中教出版、二〇一二年刊/本文 三十三ページから)
質問は「ひとまとめにしたい」という点です。「ひとまとめにしたい」というのは、どういう理由で起こるのでしょうか?
[A]
■「ひとまとめ」にしたがるのは、こころの本質
こころと名づけられているのは、認識作用の流れです。要するに、こころという実体は無いのです。その理解のうえで、こころという言葉を使って説明します。何でも「ひとまとめ」にしたがるのはこころの本質です。日常的に起こることなので、理解は簡単です。例えば、冷奴を食べようとします。醤油をかけるのをやめて豆腐だけを食べ、醤油は別に舐める……いかがでしょうか? やりたくないでしょう。やっぱり冷奴に醤油をかけて、まとめた味を味わいたいでしょう。生きることに関わるすべての行為は、このように「ひとまとめ」にしたものになります。
■こころは物事を分析して理解したくない
「冷奴がおいしい」とひとまとめにしますが、豆腐はこの味、それぞれの薬味はこれこれの味、と区別して理解したくは無いのです。花を見たら、「きれい」とひとまとめにしてしまいます。「きれい」という主観的な判断に至るために、たくさんの作業が起こりますが、それに気づかないのです。こころは物事を精密に区別して、分析して理解したくは無いのです。
■「感情がなければ生きられない」という誤解
ひとまとめにする作業で、こころに現象・幻覚が起こります。ゆえにデータではなく幻覚が事実であると、間違った判断をして生きているのです。現象・幻覚の親分は「自我」です。ひとまとめにしたら、好き/嫌い、良し/悪しの判断ができます。執着したり、嫌になったりすることもできます。そのようにして、貪瞋(とんじん)痴(ち)(むさぼり、怒り、無知の三毒)(むさぼり、怒り、無知の三毒)の感情、あらゆる煩悩が起こるのです。生命は貪瞋痴(むさぼり、怒り、無知の三毒)の感情に指令されて、貪瞋痴(むさぼり、怒り、無知の三毒)の感情を増やすために生きるという作業をしています。感情が無ければ生きていられないと誤解しているのです。ですから、ブッダが何を言おうとも、生命はすべての認識作用をひとまとめにしたいのです。
■生命は「自分」という錯覚を大事にしたい
要するに、ひとまとめにする理由は、貪瞋痴(むさぼり、怒り、無知の三毒)・喜怒哀楽の感情を大事にしたいからであり、「自分」という錯覚を大事にしたいからなのです。これがこころの性質です。この性質を直さなくてはいけないので、お釈迦様は、ひとまとめにする理由を「無明 avijjā」としているのです。
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