アルボムッレ・スマナサーラ

【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日は「阿羅漢を見つけるにはどうすればよいのか?」という質問にスマナサーラ長老が答えます。

[Q]

    過去、お釈迦様がご存命の時は、阿羅漢の方がたくさんいらっしゃいましたが、今の世の中で阿羅漢の方々がいらっしゃるのを判断するには、どうしたらいいのでしょうか?
 
 
[A]


■ブッダの教えが私たちの師匠

    その判断の必要はありませんし、できません。その判断はしてはいけません。阿羅漢を見つけ出そうとすることは、新興宗教・カルト宗教になってしまいます。それは、やってはいけないことです。邪道です。
    お釈迦様の説かれた真理(仏法)が私たちの師匠なのです。「教え」がお釈迦様・ブッダなのです。その「教え」は完璧に説かれています。ブッダの教えがある限り、みんなに師匠がいるのです。ブッダの教えそのものが師匠だとしているのです。あの弟子この弟子と追いかけていく必要はありません。
    お釈迦様の教えがあるのに、なぜ阿羅漢を探すのですか?    在家であれ出家であれ、仏教を学んでいる人々は、皆にケチをつけることもなく、頑張って教えてあげているのです。仏弟子たちは説法という形で皆にお釈迦様を紹介しているのです。法を通して、皆、正等覚者であるお釈迦様に出会うのです。

■説法する人々の決まり

    説法する人々にも厳しい決まりがあります。自説・自論を説得する目的で説法してはいけません。自分が優れた師匠であると示す目的で説法してはいけません。皆に好かれて尊敬を受ける目的で説法してはいけません。ブッダが説かれていないものを「ブッダが説かれた」と言ってはいけません。ブッダが説かれたものの真意を変える目的で解説してはいけません。見返りを求めて説法してはいけません。慈しみと哀れみの気持ちで説法するべきです。優れた説法師はどんなテーマで説法しても最終的な結論として、解脱を推薦して語るのだと、お釈迦様が説かれたのです。信頼できる説法師はその決まりを守ります。説法するということは、ものすごく緊張する作業なのです。ブッダが誤解されないように、法が誤解されないように、つねに気をつけなくてはいけないからです。誰にでも仏教を学ぶチャンスがあります。自分の本師であるブッダに出会うチャンスがあるのです。仏教の本を読んでも、説法を聞いても、鵜呑みにしないで、客観的に理性に基づいて判断すれば良いのです。本を書く人も、説法する人も、人間なので完全に語れません。自分が理解したところを派手にハイライトしたり、ついつい自論も入り込みます。話を聞く人は、そのような問題をフィルタリングして理解するべきです。説法師は自分の理解・自分の判断・自分の考えを言っても構いません。ただしその時は、明確に「これは私の意見です」と言うべきです。

■汚れた説法師

    世の中には、汚れた説法師たちもいます。無執着の心・解脱を推薦しない、現世利益・商売繁盛・超能力・無病息災の手段などを目的にする。また、「私こそブッダを理解しているのだ。私が解脱に達しているのだ。私が阿羅漢なのだ。私がブッダの生まれ変わりなのだ」などのキャッチフレーズで説法師になる。これは汚れた説法師たちの特色です。このような人々の話は、決して仏説にはならないので気をつけるべきです。要するに、ブッダの教えを通して、ブッダという師匠に出会うべきなのです。実践をすれば、お釈迦様が推薦する解脱を自分でも経験することができます。その人には、同じ経験を経て心清らかにしている仲間もいることを発見することができます。最初から阿羅漢を探すと、仏道から外れてしまうのです。

■聖者を探す人の「弱み」

    もう一つ、考えるべきポイントがあります。例えば、阿羅漢がいるとしましょう。「この人が阿羅漢である」と紹介してもらいます。阿羅漢を探し求める人々は、誰かを信仰したい・誰かを頼りにしたい・誰かに依存したい・誰かに言われるとおりにやりたい、という心の弱みを持っているのです。他人が言うことをそのまま信じてしまう危険性があるのです。これでは智慧が現れません。仏道は自ら発見する道なのです。本物の阿羅漢に出会うチャンスがあっても、自分がダメな人間のままで終わってしまう可能性もあります。というわけで、「まず阿羅漢を見つけてから」というやり方は、正しい探求にはなりません。邪道になってしまうのです。

■スリランカのエピソード

    阿羅漢を探し出すということがいかに間違っているのかを教えるために、現実的なエピソードがあります。スリランカのアヌラーダプラ時代、紀元前のことですが、ある師匠と弟子がいたのです。この二人は、長く一〇年以上も一緒にいました。ある時、師匠と一緒に仏塔に花をきれいに並べてお供えしていたのですね。そうすると弟子の若者が、「先生、阿羅漢というのはどうやってわかるのでしょうか?」と尋ねたのです。それで師匠は「あのね、愚か者は阿羅漢と一〇年一緒にいてもわかりませんよ」と答えたのです。それでもその若者には、師匠の言っている意味が分からなかったのです。
    この弟子は、一〇年も阿羅漢と一緒に寝泊まりして、一緒にご飯も食べて、背中を流してあげたりしていたにも関わらず、阿羅漢を発見できなかったのです。阿羅漢の精神は次元が違うのです。自我の錯覚がまったく無い阿羅漢を、何者かと理解するのは一般人には不可能です。
    見た目では絶対に人を判断してはいけません。相手が道徳的な人間かどうかは、長い間観察しなくてはわからないとお釈迦様も教えています。このエピソードも「阿羅漢を探す必要は無い」と言っているのです。

■「サンガに帰依する」という解決方法

    師匠はお釈迦様です。お釈迦様は完璧な人格者です。完全なる智慧があります。人を解脱に導く能力は絶対的です。無上の調御丈夫と言うのはその能力のことです。例え阿羅漢がいても、他人を指導する力があったり無かったりです。智慧第一だと釈尊から称号を与えられたサーリプッタ尊者も、人を指導しても上手く行かなかったケースが経典に記録されています。阿羅漢を探すことになると、結局それは個人崇拝することになります。仏教的ではありません。仏教では三宝に帰依するのです。三宝のなかで個人はブッダ一人です。仏教の世界では、サーリプッタ尊者に帰依します、・モッガッラーナ尊者に帰依します、などはありません。あるのは「サンガに帰依します」です。個人の能力はさまざまです。個人崇拝すると自分の成長はその個人の能力によって左右されます。これは良くありません。この問題をお釈迦様が見事に解決したのです。法主であるブッダが涅槃に入られたら「教え」がその役目を果たします。サンガは自分の能力の範囲で一般の方々に説法したり指導したりします。しかしサンガも法(教え)によって厳しく管理されています。ひとりの僧侶の指導がうまく行かなかったり、理解できなかったりした場合は、別の僧侶から教えをいただけばよいのです。どんなお坊さんから学ぶか、どんなお坊さんの指導を受けるかは自由です。出家する人々も、いろんな長老たちから教えてもらったり、指導してもらったりするのです。世間に解脱に達した人が一人もいなくても、解脱に達する道はつねにオープンで閉じられないようになっているのです。これは仏教の特色です。師弟関係で成り立つ仏教ですが、師弟関係によって起こる問題をすべて解決しているのです。

■阿羅漢探しは必要ない

    そういうことで、阿羅漢を探し出す必要はありません。自分が阿羅漢で無くても、解脱に達する道を教えてあげる能力は長老たちにあります。阿羅漢とは自我の錯覚が完全に消えることです。自分の心に起こる革命です。自分自身の自我の錯覚が根こそぎに消えたら、それは誰よりも本人が知っているのです。ですから、「あなたは阿羅漢に達しました」と認定する人も要りません。悟ったと錯覚を起こした人々は簡単にばれます。悟った人の心の状況はどのようなものかと、明確に経典に説かれているので、一般の方々にも「あの人は悟ったと言うのですが、それはちょっと違うのではないのか」とわかります。悟ったと威張っている人に騙されたならば、それは騙された人の勉強不足です。
    阿羅漢に会いたい・聖者に会いたい、という気持ちはOKです。誰だって優れた人に会いたいものです。しかし仏道を真剣に歩みたいと思うならば、阿羅漢探しを保留にしなくてはいけないのです。


■出典      『それならブッダにきいてみよう:瞑想実践編2」

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