アルボムッレ・スマナサーラ(テーラワーダ仏教(上座仏教)長老)

Suttanipātapāḷi     5. Pārāyanavaggo     11. Jatukaṇṇimāṇavapucchā
※偈の番号はPTS版に準ずる。(    )内はミャンマー第六結集版の番号


『サンガジャパンVol.25』(サンガ、2017年)から掲載を始め、『スッタニパータ    第五章「彼岸道品」』として第二巻まで刊行されているアルボムッレ・スマナサーラ長老の当連載。一流の学究者16人と、智慧の完成者たるブッダの対話によって導かれた真理を、スマナサーラ長老が現代的に解説していきます。前回から掲載の場を『WEBサンガジャパン』に移して連載再開。今回は、11人目のジャトゥカンニン仙人とお釈迦様の対話を5回に分けてお届けします。


第1回:ブッダ=「無欲を好む勇者」とは


    今回は「彼岸道品」の11番目になります。ジャトゥカンニン仙人という方と釈尊の問答を読んでみましょう。今日の質問者のジャトゥカンニンという方は、ちょっと変な名前です。もしかすると、もともとはジャートゥカンニン(Jātukaṇṇin)だったのではないかなと思いますね。

■ジャトゥカンニン仙人の問い1    悟りの境地を教えてください

1096(1102).
‘‘Sutvānahaṃ vīramakāmakāmiṃ, (iccāyasmā jatukaṇṇi)
Oghātigaṃ puṭṭhumakāmamāgamaṃ;
Santipadaṃ brūhi sahajanetta, yathātacchaṃ bhagavā brūhi me taṃ.

〔参考訳〕
    ジャトゥカンニンさんがたずねた、
「わたくしは、勇士であって、欲望をもとめない人がいると聞いて、激流を乗り越えた人(ブッダ)に<欲のないこと>をおたずねしようとして、ここに来ました。安らぎの境地を説いてください。生まれつき眼のある方よ。先生!    それを、あるがままに、わたくしに説いてください。
(中村元〔訳〕『ブッダのことば    スッタニパータ』岩波文庫より    以後同)


    ●「無欲を好む勇者」の意味

    日本語訳は非常に簡単ですが、パーリ語の単語一つ一つにはとても大切な意味が込められています。Sutvānahaṃは「私はこういう話を聞きました」という意味です。昔はマスコミなどがありませんから、人から人へといろいろな話が伝わっていたのです。   Vīramakāmakāmiṃのvīramは、偉大なる人物ということで「勇士」と訳されます。Akāmaは「欲がない」、kāmiṃは「欲がある、好む」という意味で、つまり、「無欲を好む勇者」という意味の複合語になるのです。
    Kāma(欲)について解説すると、生命には眼・耳・鼻・舌・身・意の六根に、色・声・香・味・触・法という6種類の対象が(六境)が絶えず触れています。生きるということは、ただそれだけのことであって、とりたてて不可思議なものは何もありません。眼に様々な色(しき)が触れれば、それによって認識が働き、耳に様々な音が触れれば、また認識が働きます。そうやって6種類の認識の流れが、絶え間なく働き続けているのです。

    ●「魂」という忘れ物探し

「認識している」という現象は一つに見えますが、我々は心の働き、つまり思考の流れも知覚しています。しかし、思考の流れは一本道だと思い込んでしまって、その土台である眼・耳・鼻・舌・身・意の働きを忘れてしまうのです。その結果、人々は「魂・霊魂・命」といった、何か特別な「大事なもの」が存在するかのような錯覚に陥ってしまいます。本当はその6つの機能しかありません。もし他に大事なものがあるならば、すぐに見えてくるはずです。その「大事なもの」だけが見当たらないというのは、理屈としておかしいのです。
    似たようなことは日常生活でも起こります。私自身もよく経験しますが、大事なものをどこかに忘れて失くしてしまうことがあります。探してみると、他のものはすべてあるのに、探している物だけがない。そして、用が済んで諦めて、別のことをしているときにふと見つかるのです。もっとも、その場合は「今さら必要ない」ということになってしまうのですが。ただ、こういった忘れ物の場合は、確かに「あったはず」なのです。自分には「これを持っていた」という確かな経験や記憶があります。単にどこに置いたかを忘れてしまった、それだけの話です。
    しかし、人間が「魂」を探している場合は事情が異なります。「昔はあったのに今は忘れてしまった」ということはあり得ません。「どこに置いたか忘れた」と言って、自分の身体や命の中を探そうとしますが、そもそも一度たりとも「あった」という証拠がないのですから、我々の日常の探し物とは次元が違うのです。日常の経験で何かを忘れたとしても、それはかつて「あった」ことが確実です。だからこそ、たとえ用が済んだ後であっても、いずれは見つかるものなのです。
    人々はこれまで「魂はあるだろう」という推測だけで語り続けてきました。もし、「かつて確かにあったものが見当たらなくなった」という話であれば簡単なのですが、実際には、過去に魂を発見した人など一人もいないのです。

    ●禅定体験と身体感覚の消失

    何らかの体験をして「これが魂だ」と言っているに過ぎません。よく言われるのは、瞑想などをしていると、なんとなく自分の身体の殻が消えたような感覚になるというものです。しかし、それは仏教の観点からすれば、それほど珍しいことではありません。第一禅定や第二禅定に入ることは、極端に難しいことではないからです。心が落ち着いてさえいれば、禅定には入れるものなのです。
    第一禅定に達するためには、眼・耳・鼻・舌・身からの情報を遮断しなければなりません。しかし、感覚器官は自動的なシステムなので、私たちの自由意志で簡単に遮断できるものではありません。眼を閉じることはできても、視覚機能自体が一時停止するわけではなく、常にデータを取り続けています。耳も同様です。したがって、この感覚情報の流れを意図的に「スイッチオフ」にする必要があります。これは瞑想によってのみ可能です。瞑想で一つの対象(チャンネル)への集中を育てることで、他の感覚がオフになるのです。それは呼吸に気づき続けることだけでも十分可能です。
    ヴィパッサナー瞑想のように30分程度坐るだけでは不十分です。立ち上がれば集中が切れてしまうからです。ですから、1時間程度でも繰り返し訓練する必要があります。呼吸だけに集中し、そこから生じる感覚に集中していけば、五根のチャンネルが一時的にオフになります。これが第一禅定の状態です。情報が入ってこなくなるので、身体の存在を感じなくなります。肉体から脳に入る情報も一旦停止している状態になるのです。
    身体感覚がなくなると、心はどうなるでしょうか?    身体という拠り所は消えますが、心自体は強烈なエネルギーで回転し続けています。そうやって自分が消滅したような体験をする人は多くいますが、彼らはその体験を「これは楽しい」「素晴らしい」と先入観で決めつけてしまいます。そして「森羅万象を創造した大いなる魂と一体化したのだ」と解釈するのです。本人にとっては自他の区別が消滅しているからです。ここで言う「自」とは肉体のことです。肉体感覚が消えて、強大なエネルギーの流れと、禅定特有の至福感だけが残ります。しかし、お釈迦様が心理学的に分析すれば、それは解脱でも何でもありません。いずれ元の状態に戻るからです。「面白い経験をした」という記憶だけで終わってしまうものなのです。

    ●ウパニシャッドの誤認

    そういう禅定体験を通じて、「これが魂ではないか」と結論づけるのは、過去の知識に基づいた先入観による判断です。それは客観的に立証された尺度ではありません。ウパニシャッド哲学の書物などを読むと、魂については常にそのように説明されています。私が今説明したこととまったく同じです。ウパニシャッドを信奉する方々は「もっと高度な哲学ではないか」と思うかもしれませんが、実はそれほど複雑なことではありません。世界にあるあらゆる哲学は、結局のところ「tat tvam asi」という一語に集約しようとしているのです。
「tat」というのは、英語で言えば「That(それ/あれ)」です。「tvam asi」はちょっと訳せません。「tat tvam asi」とは、"That is you"(其は汝なり)という意味です。眼耳鼻舌身に入ってくる情報はすべて「That」ということにするのです。日本語では「あれ」「それ」「これ」などと区別しますが、それらすべてをまとめて「汝である」と言うのです。そう聞くとすごく深遠な哲学だなぁと思えるかもしれませんが、結局のところ、瞑想によって五根の情報を遮断して、自他の区別がつかなくなった状態を指しているのです。「あれは私であって、それもまた私である」という感覚です。禅定に入っていても「私」という実感はあるので、「私はすべてのものと一体になった」という結論に至るのです。
    お釈迦様も、禅定そのものは認めています。仏教にも禅定の体系は含まれているし、それを科学的に分析しています。一方、ヒンドゥー教などの哲学では、信仰や固定観念、先入観を交えて宗教的に説明します。一般的には、そのほうが人気があるのです。科学的な説明よりも、物語(ストーリー)として語られるほうがわかりやすくて、一般人に受け入れられやすいためです。
    お釈迦様は、他の修行者が到達した精神状態自体は否定していません。宗教的な先入観を排して、客観的にその境地を説明しているのです。仏教では8種類の禅定を説いていて、4番目の禅定まで(色界禅定)まで入れた人はけっこういますが、第5段階から第8段階までの禅定(無色界禅定)に達した人は非常に稀です。お釈迦様が出家して修行していた頃に出会った二人の師は、それぞれ第7、第8段階まで達していたとされています。これは仏典に出てくる話であって、歴史的な事実は不明確です。インドの歴史において、こうした「本物」の人々の名前は残りにくいものです。自己を主張し宣伝する人々は歴史に名を残しますが、本物は自我がなく控えめなので、世に知られることなく消えていくのです。したがって、仏典に登場する菩薩時代の釈尊の師匠、アーラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマプッタという二人の仙人の名前は、インドの一般的な伝承の中ではほとんど見当たらないのです。

    ●生きることの定義

    私がここまで長々と話したのは、akāmakāmiṃ(無欲を好む)というキーワードを説明するためでした。Kāma(欲)とは、眼・耳・鼻・舌・身に情報が入って、それによって心が回転する世界を指します。そうでなければ命は存在しません。つまり、「生きている」ということは、五根からの情報を受け取っている状態のことなのです。医師が人の生死を判断する際も、刺激に対する反応を見るでしょう。反応がなければ、死んでいると判断されるのです。
    昔はともかく、最近では脳の反応も調べられますから、身体が反応しなくても「脳死」や、逆に脳が機能していなくても身体は生きている「植物状態」といった判断がなされます。しかし、それでも仏教的には明確に「死んでいる」と定義することは難しいのです。仏教において、情報に対して何ら反応しなくなったら、もう死んでいるのです。死とは意識、すなわち心の機能が完全に停止してしまった状態を指します。
    意識が完全に停止すると、そこには物体としての肉体が残ります。肉体だけでは自立して生きることはできませんから、本来であれば、みるみるうちに腐敗していくはずです。体内には大量の細菌が生息していて、彼らは死んでいないから、肉体はすぐに分解されてしまうのです。植物状態の場合、機械を使ってでも肉体が維持されているということは、そこにはまだ何らかの生命活動があるということになりますが、判断は難しいところです。

    ●「思考」という足枷を外す

    お釈迦様は完全な悟りに達しておられますから、眼・耳・鼻・舌・身という感覚器官だけではなくて、意(心)にも依存していません。一方、我々は妄想しなくては生きていられません。常に絶え間なく考え続けていて、これを止めることができないのです。また、身体には自動的に情報が触れて、刺激が入り続けています。もしそうでなければ、脳はパニックを起こしてしまいます。たとえば、手足の感覚が一時的にでもなくなれば、誰でも驚き、恐怖を感じてしまうのです。ですから、私たちは常に大量のデータを取り込み、認識しているのです。それだけでは足りなくて、さらに思考や妄想も行っているのです。
    ヴィパッサナー瞑想の実況中継(ラベリング)を行いながら生活してみると、「真面目に生きるために思考はそれほど必要ない」ということがすぐに経験できます。考えなくても、いろいろなことができるのです。裏を返せば、我々は普段、考えなくてもできる動作をしている最中に、余計なことを考えているのです。たとえば料理をしているとき、料理とはまったく関係のないことを大量に考えています。それでも料理ができるということは、料理という行為そのものに「思考」は不要だということです。歩くときも同様に、あれこれと考え事をしていますが、それは「考えなくても歩ける」ことの証明です。私は皆様に、そのことを科学的な実験として実践してもらっているのです。「思考しないで歩いてみなさい」と。思考が入ってしまうから、実況中継(ラベリング)をさせるのです。実況がなければ、それは瞑想になりません。

(第2回につづく)


2017年12月25日    ゴータミー精舎での法話をもとに書き下ろし
構成    佐藤哲朗


第2回:存在欲の真理~あるのはただ6つの流れだけ

お知らせ

アルボムッレ・スマナサーラ[著]
『スッタニパータ    第五章「彼岸道品」』
紙書籍のご紹介


アルボムッレ・スマナサーラ長老の著書『スッタニパータ    第五章「彼岸道品」』の『第一巻』と『第二巻』はサンガより刊行され、現在、紙書籍をサンガ新社が発売しています。
今後の続刊に収録する法話を、『WEBサンガジャパン』で連載していきます。
『第三巻』の刊行をご期待いただくとともに、『第一巻』『第二巻』もどうぞお買い求めください。(サンガから刊行した『第一巻』『第二巻』は数に限りがございますので、お早めにご注文ください)

一流の学究者16人と、
智慧の完成者たるブッダの対話によって導かれた真理を、
鮮やかな現代日本語でわかりやすく解説する。

第一巻
Ⅰ    アジタ仙人の問い
Ⅱ    ティッサ・メッテイヤ仙人の問い
Ⅲ    プンナカ仙人の問い
Ⅳ    メッタグー仙人の問い

第二巻
Ⅴ    ドータカ仙人の問い
Ⅵ    ウパシーヴァ仙人の問い
Ⅶ    ナンダ仙人の問い
Ⅷ    ヘーマカ仙人の問い


【以下、第三巻以降に収録予定】

Ⅸ    トーデイヤ仙人の問い
Ⅹ    カッパ仙人の問い
Ⅺ    ジャトゥカンニン仙人の問い
Ⅻ    バドラーヴダ仙人の問い
XIII    ウダヤ仙人の問い
XIV    ポーサーラ仙人の問い
XV    モーガラージャ仙人の問い
XVI    ピンギヤ仙人の問い

『第一巻』『第二巻』は「サンガオンラインストア」と「Amazon」で販売しています。販売ページのリンクをご紹介します。

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スッタニパータ    第五章「彼岸道品」
第一巻

アジタ仙人の問い/ティッサ・メッテイヤ仙人の問い/
プンナカ仙人の問い/メッタグー仙人の問い

アルボムッレ・スマナサーラ[著]





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スッタニパータ    第五章「彼岸道品」
第二巻

ドータカ仙人の問い/ウパシーヴァ仙人の問い/
ナンダ仙人の問い/ヘーマカ仙人の問い


アルボムッレ・スマナサーラ[著]