アルボムッレ・スマナサーラ
【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「「私」がないなら誰が幸せになるの?」です。

[Q]

    「私(自我)は無い」ということですが、そうは言っても普段の生活で「私」ということを意識しながら生きていますし、『慈悲の瞑想』では「私が幸せでありますように」と出てきます。『慈悲の瞑想』で出てくる「私」とは、「無いはずの私」のことを言っているのか、「私」というものがわからなくなってしまったので教えてください。


[A]

■言葉は真理にはならない

    言葉というのは、世間でコミュニケーションするために使っている道具です。言葉で真理を表現できるわけではありません。人間は、石器時代から言葉という道具を開発してきました。覚者・悟った人が作った言語はありません。
    世間で生きるために、毎日の生活では言葉を使います。ですから、そのひとつで「わたし」という単語も使います。仕方ありません。しかし、「わたし」というのは真理ではありません。私と言っている普遍的なものは何もないのです。それだけ理解してください。
    たとえば、今日は日曜日ですね?    では日曜日という日が、本当にありますか?    ないでしょう。人間が勝手に作った概念でしょう。日曜日は、絶対に存在しません。しかし、人間の世界には、共通認識としての日曜日があるのです。ということで、概念として認識の中にはあるのに、現実に存在しないものが実はたくさんあります。
    世間で意思疎通をするために、主語として「わたし」という単語を使わざるを得ない。けれど、真理として、実体として、変化しない、永遠不滅の、「わたし」があるわけではない、ということが事実なのです。
    世間では、人間がコミュニケーションのために作った言葉・単語を、それが「実在するものだ」「確かにあるのだ」と勘違いしてしまったのです。たとえば虹や蜃気楼などの現象、日曜日や天国や神様などの名称も、実際にあるかのように勘違いしてしまう。それは人間の手には五本の指があるというほどの、リアリティ(現実性、実在性)もないのです。ですが、世間では「わたし」「あなた」という言葉を使わなければ不便なのです。

■「わたし」とは、単に五つのシステム・機能

    『慈悲の瞑想』に関連させれば、「わたし」という実体がなくても、「わたし」といわれるシステムが働いています。細胞システムが働いていて、感覚システムが働いていて、概念システムが働いていて、感情(衝動)システムが働いていて、認識システムも働いています。五取蘊と言われる生命の五つのシステムがあります。そのシステムが互いにトラブルなく働くこと、調和してスムーズに働くことが幸せなのです。「私は幸せでありますように」ということは、そのように理解することもできます。
    肉体という細胞システム(色取蘊)は、ある程度で調和して機能し、幸せで平和に頑張っています。受想行識のシステム(取蘊)は、恐ろしい破壊的なテロ行為をしています。『慈悲の瞑想』によって受想行識のシステムも落ち着いて、調和して働いてほしいということになります。

■ラベルを剥がして観る

    ということで、真理として、実在としては、私はいない・私はないのですが、世間的には私がいます。その私が幸せでありますようにと理解して構いません。『慈悲の瞑想』は、「生命」というユニット(単位)を対象とし、認識を鍛える訓練方法なので、自他という問題は避けられないことです。たとえば「色取蘊が幸せでありますように」という実践は成り立たないのです。それでは心は認識・反応・把握できません。心が変わらないのです。
    「わたし(自)」というシステム、「あなた(他)」というシステム、親しい生命・嫌いな生命などというのは、自分の感情でラベルを貼っているだけなのです。実際には、親しい生命・嫌いな生命が存在するわけではありません。しかし、自分との関わり・関係性から起こる感情によって、確かに親しい生命も嫌いな生命も、私を嫌っている生命もいます。自分の感情によるラベルを外してしまえば、ただ「生命」ということになってしまうのです。

■慈悲が、唯一正しい生き方

    お釈迦様は『慈悲の瞑想』を通じて、唯一の正しい生き方を教えています。五つのシステムで成り立つ「わたし」という現象を、本当に実在すると勘違いすることで、私という管理者、つまり自我の錯覚が悪魔になって無茶苦茶な判断をし、間違った行動をし、調和・幸せを片っ端から破壊してしまっているのです。すべての悪は、「わたし」という自我の錯覚から始まるのです。「わたし」が管理・支配し、いじめ・いじめられ、終わりなく悩み・苦しみを作り出してしまうのです。
    『慈悲の瞑想』の場合は、心の仕組みを解き明かしたお釈迦様が、「生命」という概念に基づいて、唯一正しい生き方を、誰にも否定できない生き方を、慈悲喜捨という単語にまとめ教えているのです。その場合は、どうしても「わたし」という言葉を使わざるを得ないのです。だからといって、私がいる・実在するという結論にはなりません。『慈悲の瞑想』で認識機能(能力)が向上していくと、認識次元を超え、自他の区別が消え、単に「生命・衆生」として認識できます。さらに進化して、「生命・衆生は五つのシステムである」と明確に理解して納得できれば、最終的に心は「落ち着き」というウペッカー(捨)状態になってしまうのです。



■出典    『それならブッダにきいてみよう: こころ編5』
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