松本紹圭(僧侶)
熊谷晋一郎(東京大学先端科学技術研究センター当事者研究分野准教授)


「未来の住職塾」塾長でもあり、現在「産業僧」事業に取り組む松本紹圭氏がホストを務め、さまざまな分野における若きリーダーと対談し、伝統宗教を補完するような新しい精神性や価値観を発見してく「Post-religion対談」。今回は松本紹圭氏のたっての希望で実現した、東京大学准教授の熊谷晋一郎先生との初対談をお届けします。「道徳」や「仲間」といったキーワードをめぐりながら、経済合理性が最大の価値とみなされ、自己責任など厳しい言葉で形作られている近代をよりよく生きるために大切なことについて語り合います。


第1話    他者評価に依存して、他者に依存できなくなった時代


■依存先の一つとしての仏教

松本    松本紹圭と申します。今日は本当にありがとうございます。以前から熊谷先生のファンで、著作を拝読したり、ご講演を聞かせていただいておりました。

熊谷    そんなそんな、滅相もないです。こちらこそ今日は光栄な機会をいただきましてありがとうございます。

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松本紹圭師と熊谷晋一郎先生
松本    熊谷さんの「自立とはたくさんの依存先を持つことである」というお話を、私は皆さんによくご紹介しています。最近は、仏教の言葉を紹介するより、熊谷さんのお話を紹介していることのほうが多いくらいです。

熊谷    光栄です。

松本    どんな場面で依存先のお話をしているかと言いますと、私は今「テンプルモーニング」という、皆さんと一緒にお寺の朝を楽しむ機会を作っておりまして、時間は朝の7時30分から8時30分まで、最初の15分はみんなでお経を読み、その後20分くらい境内の掃除をして、その後お茶を飲んでお喋りをする、そういった1時間の朝のパッケージをやっています。
    ツイッターで呼びかけると、本当にいろいろな方が訪ねて来てくださるのですが、その場で私は「テンプルモーニングという場所を皆さんのたくさんある依存先の一つにしてもらえたら嬉しいです」というお話をしています。
「仏教」や「宗教」というと、「唯一の依存先」、場合によっては「布教をするもの」というような意味に捉えられがちです。しかしもともとの仏教は別にそうではなくて、ブッダになる道、悟りの道でした。それが長い歴史を経て、だんだんと教団宗教化しました。極端な場合だとカルトになります。
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松本紹圭師
熊谷    なるほど。

松本    あれもこれもではなく「一つ選びとる」という要素は宗教の重要な態度です。もちろんそれもよいのですけれども、もうちょっと気軽に、いろいろな依存先がある中の一つとして、お寺という場や、そこで出会う人とのつながりを捉えるようなやり方もあってもいいのではないかと思って、私はテンプルモーニングの活動を始めました。

熊谷    なるほど。排他性のない宗教というか、空間ですね。

松本    仰る通りです。


■依存症は近代の病である

松本    熊谷先生のこれまでの人生における宗教との関わりについて、よろしければお聞かせいただけますか。

熊谷    私は宗教については本当に門外漢ですけれども、本格的に宗教の意味について考え始めたのは、依存症の自助グループの活動を知ったことがきっかけでした。私は当事者研究という取り組みをやっているのですが、当事者研究というのは何もないところから生まれた活動ではなくて、いろいろな先行する活動の影響下にある活動なんです。
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熊谷晋一郎先生
松本    そうなのですね。

熊谷    はい。その先行する活動の一つが、依存症の自助グループの活動です。依存症の当事者の方と最初に出会ったのは2010年前後だったと思います。本当に目から鱗の連続でした。多くの専門家が依存症について論じていますが、私が興味深いと思って目に留めた専門家の一人が、社会学者のアンソニー・ギデンズ(Anthony Giddens)です。彼はずばり「依存症とは近代の病である」という言い方をしています。
    宗教というものが社会統治の役割をだんだん縮小していく中で、ある意味では、人の存在価値を承認してくれる装置が、超越的なものではなくて、隣人に変わったといいましょうか、つまり周りの人に「あなたは価値があるね」と認めてもらえない限り、自分の価値を確認する術(すべ)がなくなった。その結果、役立っていることを常に証明し続けなくてはならなくなった。「私はあなたにとってこんなに有益な存在です」「社会にとってこんなに役立つ存在です」ということを示し続けなければ、自分に価値が、保証されなくなりました。
「他者評価に過度に依存して、他者に依存できなくなる状態」と言ってもいいでしょう。自分の価値を確認する評価基準としては他者に依存しているけれども、自分が生きるときに安心して身を委ねる他者はいない。他者はいつ何時、自分を裏切るかもしれない。他者はライバルだから、安心して身を委ねて「助けて」とは言えない。他者評価に過度に依存して、他者に依存できない状態になってしまっている。そういう独特な依存の時代が近代以降一般化してきました。


■依存症者こそが、近代の優等生である

熊谷    依存症の核の部分にはそういう人間関係の取り持ち方があるのだという説をアンソニー・ギデンズが唱えていて、それを読んでなるほどと思うと同時に「あれ、でもみんなが同程度に依存症になっているわけではないぞ。みんな大なり小なり依存症かもしれないけど、すごく深刻な依存症を生きている方と、それほど深刻ではない方とバリエーションがあるぞ」と思い、その個人差はいったい何から来ているのだろうということが気になり始めました。
    そんな矢先に「ダルク女性ハウス」という薬物依存症の女性のための活動をしていらっしゃる団体の方と知り合いになりまして、多くの依存症の方々が小さい頃に虐待を受けているという事実を恥ずかしながら初めて知りました。
    調べてみると確かにそういうエビデンスがたくさん出ていて、個人差というものの正体の一端が少し分かったような気がしました。近代に生きている私たちも、完全に近代の優等生なわけではなくて、実はインフォーマルに前近代を生きている、あるいは信じている。恵まれた養育環境に育った人であれば、「自分には価値がある」「隣人はライバルではない」「無条件に自分を受け止めてくれる他者が存在する」といった評価されないで身を委ねられるような、前近代的な他者を経験しているのだと気づいたんです。
    虐待という経験は「近代を素で生きてきた」ということだと思います。安心して養育者に身を委ねようとするや否や、叩かれる、辱められる。そういう経験をすれば、自ずと養育者に依存できなくなります。安心して「助けて」と言えなくなり、びくびくし続けることになります。他者の機嫌を損ねてはいけない。いい子でなくてはいけない。自ら評価される主体になっていくわけです。
    そういう意味では、依存症者こそが、近代の優等生である。本当に裏なく近代を生きている人として、依存症者が見えてきました。
    さらにそこから依存症者が回復していくプロセスを学んで、そのプロセスの中に、スピリチュアリティ、あるいは無条件に自分の価値を承認してくれる大きな存在――そういったものが現代では特定の宗教とは結びついてはいなくて、超越性をもつ共同体的な他者が自分を承認してくれる場合もあると思いますが――いずれにしろ、そこに広い意味での宗教というか、私たちが生きていく上で欠かせない要素が何かあるのだろうということを、依存症の当事者の自助グループの実践から考え始めるようになりました。

(つづく)

2022年5月10日    東京大学東京大学先端科学技術研究センターにて対談
構成:中田亜希   
撮影:横関一浩

第2話    近代に前近代を持ち込む