中村圭志(宗教研究者、翻訳家、昭和女子大学・上智大学非常勤講師)
ジャンルを問わず多くの人の心に刺さる作品には、普遍的なテーマが横たわっているものです。宗教学者であり、鋭い文化批評でも知られる中村圭志先生は、2023年に公開された是枝裕和監督・坂元裕二脚本の映画『怪物』に着目。カンヌ国際映画祭で脚本賞を受賞したこの話題作の背後に「宗教学的な構造」を発見し、すっかりハマってしまったそうです。大学の講義で学生たちも驚いた独自の読み解きを、『WEBサンガジャパン』にて連載。全六章(各章5回連載)のうちの第四章は、まさに宗教の主要テーマとなる“死と終末”がキーワードです。
第四章 死と終末のイニシエーション[2/5]
■人格的な、そして野性的な交わり
ビッグランチが通過儀礼だとすると、湊と依里は象徴的な意味で「生まれ変わった」わけですが、映画の中で二人は「生まれ変わりはない」ということで合意しています。直接の意味は、自分たちの本質は変わっていない、二人は恋人どうしのままだということです。
では、何が変わったのかというと、人生が新段階に入った、積極的になったということでしょう。もう逃げることなく、いっしょに人生街道を走っていけるようになった。
これまで湊は、依里に惹かれるものを感じており、仲良しとして遊んではいましたが、相手のためを思って行動するというような成熟した愛の感情は芽生えていませんでした。むしろそういう成長は阻害されていたわけです。このたびプオーッによりその阻害要因が解除され、初めて湊は依里という人格に向き合うようになった。依里のほうでは、抑圧のなせるわざではありますが、湊の立場を立てて一歩譲るという態度を身につけていましたから、二人はここでようやく揃って人格的な交わりのステージに上がったことになります。
つまり二人が「パートナー」となる準備が整った。それは、順風のときも逆風のときも助け合う関係です。それには、もはや試練に負けないということを明らかにする儀式が必要です。それがビッグランチの通過儀礼だったと考えられます。
昔の男子どうしの関係であれば、「義兄弟の契り」のようなもの、大人の男女であれば伝統的に「結婚」と呼ばれてきたもの――現在では同性間にも拡張されつつあります――ですが、湊と依里はあくまでも子供です。男女の関係においても小学生で結婚式をやりはしない。ですからこれは、あくまで子供が行なう、SF的夢想としての儀式です。
ビッグランチという荒唐無稽なセッティングが選ばれたのはそのためでしょう。
ここで私が連想するのは、不良少年が肝試しに高速道路に飛び出して轢かれずに戻ってきて見せるとか、電車の屋根に乗って感電して命を落としたとか、世界中で耳にする乱暴な十代の儀式です。男子女子は関係ない文化かもしれませんが、男子のほうが無謀なものへと走りやすいことは確かでしょう。台風の日に廃墟に行って土砂崩れに遭うというビッグランチの危険な設定は、「宇宙女子」と呼ばれる依里とお母さんの運転する車の中で「男じゃないかもしれない」と呟く湊の中に潜む男子っぽいワイルドな側面を表現したものと解釈することができます。