〔ナビゲーター〕

前野隆司(慶應義塾大学)
安藤礼二(多摩美術大学)

〔ゲスト〕
川野泰周(神奈川県林香寺)
白川宗源(東京都廣福寺)


慶應義塾大学の前野隆司先生(幸福学研究家)と多摩美術大学の安藤礼二先生(文芸評論家)が案内人となり、各宗派の若手のお坊さんをお呼びして、それぞれの宗派の歴史やそれぞれのお坊さんの考え方をざっくばらんかつカジュアルにお聞きする企画、「お坊さん、教えて!」もいよいよ最終回。臨済宗の川野泰周さん(林香寺)白川宗源さん(廣福寺)をお迎えしてお送りします。


(4)坐禅とマインドフルネス


■坐禅とマインドフルネスの違い

安藤    視聴されている方からも質問が届いていますので、ご紹介していきます。

──坐禅とマインドフルネス瞑想は何がどう違うのでしょうか?

川野    究極は同じものであると私自身は思っています。というよりも、瞑想という行為、瞑想的な要素をすべて包含しているのがマインドフルネスという概念です。今というこの瞬間を大切にして取り組んでいく。そして、精神を統一して安らかな心を求めるという意味では、瞑想というのはすべて同じことを目的としていると思います。
    坐禅は手放すためにするけれども、マインドフルネスは手に入れるためにする。このように揶揄されることがよくありますけれども、私は本当のところはそうではないと思います。
    マインドフルネスを始めるのはたとえば困っている症状を治すためだったり、ビジネスの世界においては業務効率を改善するためとか、休職者を減らしてストレスチェックのスコアをよくためとか、そういう目的があります。そういう意味では坐禅とマインドフルネスは大きく異なります。
    ただ私が実際に目の当たりにしているのは、しっかり日々瞑想を続けていくことによって、最初に思っていた目的がどこかにいってしまうという現象です。もともとは治療したい一心で瞑想し始めたのに、いつの間にか病気の症状は治っていて(あるいは治っていなかったとしてもそれと共存できる状態になっていて)、ただただ心が安寧の中にいられるようになるのです。

──マインドフルネス療法をされている精神科医が仏教の考えを把握すると、マインドフルネスの効果はより高まるのでしょうか?

    臨床家の先生方から実際に「仏教的な精神はマインドフルネスにどう役立つのか」とご質問いただくことがあります。私はその答えの一つとして「患者さんと一緒に佇むことができるようになる気がします」と申し上げています。
    患者さんをよくしようという心を持って治療をするというのはもちろん大事ですが、あまりにそのことばかりにとらわれると、それは「治療者の執着」になってしまいます。しかし、禅的な精神を知った上でマインドフルネス治療にあたると、そういった心を手放して、患者さんとただその「辛い」という時間を共有できるようになるような気がしています。たった3年ですけれども、私が修行生活から精神科臨床に戻ったときにわずかながら、そのように感じました。
    実はこれができると、医者をやっていて楽しくなるんです。精神科医は自分の施した治療によって患者さんの状態がよくならないと、やりがいを無くしがちです。私も若い頃はそうでした。「なんで製薬会社さんが勧めてくれる最新の薬を使ってもよくならないんだろう。そもそも私が処方しているとはいえ、この薬を開発したのは製薬会社の研修者たちだしな……」などと思ってしまい、やりがいにつながらない。ところが不思議なもので、修行を経験させていただいてから診療を再開し、患者さんがなかなかよくならない状況にあってもその状況を共に体験できるようになると、逆に良くなっていく過程をサポートできるようになるのです。
    私が禅から学んだことというのは「今という時の中に、ただ佇んでいることができる」という力なのではないかと思います。


■マインドフルネスとプラグマティズムの思想との関係

──マインドフルネスやセルフコンパッションはプラグマティズム(実践主義)の思想なのでしょうか?

川野    海外で最初にマインドフルネスのムーブメントが起こったときは、自分自身の利得の目的のために行う傾向が非常に強く、しばらくすると「瞑想を続けていくとアイデアが出なくなってきた」と報告する人が増えるという現象が起きました。
    そもそも何かを手に入れたいとか、儲けたいというような自分自身の利得を強く求める人にとっては、マインドフルネスはそうした考え自体を執着として扱い、それをどんどん手放す方向に作用します。欲求を満たすためにマインドフルネスを始めたのに、結果、欲求自体がわいてこなくなる。だからアイデアも出なくなる。そこに矛盾を感じた人が欧米では多かったのだろうと思います。
    一方、私がかからせていただいている患者さんたちは「自分がこうなりたい」ということだけではなくて、世のため人のため、大切な誰かのために何かをしたいという自然な気持ちを大切にしている傾向があります。こういった気持ちは、マインドフルネスをしっかりと心に根付かせることで湧いてくる、「セルフ・コンパッション」つまり仏教の言葉でいう「慈悲」によるものです。そういう気持ちは執着にはなりにくいのではないかと思います。
    マインドフルネスを取り組み始めて、小さい頃にワクワクした気持ちとか、本当はやりたかったけれども押し殺してきたような着想が蘇ってきて、新しい生き方を選択できるようになった人を私は何人も見てきました。私がマインドフルネス指導でかかわった方たちの言葉を借りるとすれば、欧米で観られた現象とは逆に、「マインドフルネスを適切に取り入れていくとアイデアは出やすくなる」そんな傾向がありました。
    ですから、私はやはり大乗の考え方である「利他」を大切にしたいのです。見返りを求める利他ではなくて、自然と湧き出る利他をゴールにすることが、私が考えている理想のマインドフルネスです。

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(写真提供=川野泰周)

■マインドフルネスは伝播する

安藤    いま社会には行き詰まりが見えてきていると思いますが、そういった社会に対して何か提言がございましたら、ぜひお聞かせいただければと思います。

川野    今の世の中はやはり動乱の時期で、「自分の外側で起こっていること」に興味を持たざるを得ない時代であると思います。しかし、私としては、外に注意をずっと奪われっぱなしになっているという状況を非常に危惧しています。外のことに振り回されるために自らが今どういう状態なのか、自分がどれくらい苦しいのかさえわからなくなっている人が多くなっているのです。精神医学的に言うとアレキシサイミア(Alexithymia)と言います。感情を失ったかのように見える状態ですね。
    こういった社会に対して、私自身ができることとしては、私がかかわる身近な人に「自らと向き合う」ということの大事さを伝えていくことなのではないかと思っています。「自分との対話」というのも禅の文化が持つ魅力だと思うのですよね。茶の湯もそうではないでしょうか。様式美を大切にしながら、自らと向き合う時間なのではないかと思います。私から見れば、茶の湯はマインドフルネスそのものです。
    そういう「自らと向き合う」ことの大事さを伝えていく活動を、微力ながら私はしているつもりです。
    マインドフルネスって、「伝播」してゆくんです。ある人が自分自身と向き合い、自分の存在を受容できるようになっていくと、そばにいる人のあり方もだんだん変わっていく。気づきと受容、仏教の言葉で言えば智慧と慈悲ですね。そういう心を持つ人が増えることで組織全体が変わっていき、やがて社会全体も変わっていく。そういうような希望を私は持っております。
    そのために私自身は、一番身近な人たち、いつもかかわっている患者さんや坐禅会に参加してくださる方に、そのことの大事さを伝えていきたいなと思って、日々活動しております。

(つづく)

(3)精神医学とマインドフルネスと仏教の接点
(5)過去を見ながら未来に歩く