〔ナビゲーター〕
前野隆司(慶應義塾大学)
安藤礼二(多摩美術大学)
〔ゲスト〕
川野泰周(神奈川県林香寺)
白川宗源(東京都廣福寺)
慶應義塾大学の前野隆司先生(幸福学研究家)と多摩美術大学の安藤礼二先生(文芸評論家)が案内人となり、各宗派の若手のお坊さんをお呼びして、それぞれの宗派の歴史やそれぞれのお坊さんの考え方をざっくばらんかつカジュアルにお聞きする企画、「お坊さん、教えて!」もいよいよ最終回。臨済宗の川野泰周さん(林香寺)白川宗源さん(廣福寺)をお迎えしてお送りします。
(5)過去を見ながら未来に歩く
■お寺を活用するのは通仏教的なこと
安藤 お二人は修行の途中にある菩薩という存在を理想とし、いままさに菩薩としてあり続けようとなさっていると思います。その活動の中心であるお寺という場所で、お二人はどのようなことをなされている、あるいはなされようとしているのでしょうか。川野さんと白川さんの今までのお寺での活動や今後のビジョンについて、何かお話いただけることがあったらお聞かせください。
川野 お寺を拠り所として求めてくださる方が、私の子ども時代に比べて最近は増えているように思います。令和は「心の時代」ではないかと思いますね。世界中で分断が進んでいますけれども、私たち禅僧は「衆生みんなで一つだよ」という「和合の精神」を、修行を通して教えていただきました。そんな私たちだからこそ、和合という言葉を軸にして、何かこうお寺を起点に統合していくようなことを目指せたらいいなと思っています。私自身、禅と精神医学を統合したいという思いで取り組んでいるところもあり、そのように思うところがございます。
林香寺全景(写真提供=川野泰周)
今はちょっとコロナ禍で難しいのですが、少し落ち着いたら私はリアルの場で「マインドフルネス坐禅会」というものをやってみたいと考えています。ちゃんとした坐禅会をやっている先輩和尚様たちに怒られてしまうかもしれませんが(笑)。
マインドフルネスは私にとっては「方便」なんです。「嘘も方便」ということではなく、真実の方便ですね。禅の精神を伝えるとなるとやはり一子相伝(いっしそうでん)の世界になってきますので、私のようなものが安直に「禅とは、こうだ」と言うことはできません。しかしマインドフルネスは、海外の方が禅的精神を、「ウェルビーイング」つまり日頃を健康に、幸せを感じながら生きていくために活用しようという観点で生まれているので、私でもお話できますし皆さんと共に実践することもできます。
「深淵な禅の世界は私には話せません」と口を閉ざしてしまったらそれまでではないかと思うのです。なぜ私がそう思うのかというと、本当に苦しんで困っている方たちと、日々接しているからです。禅もマインドフルネスも、その入り口を広くすることはとても大事だと思っています。
他の禅宗のお坊さんたちが、皆さんそう考えているかはわかりません。ただ私の勝手な考えとしては、誰にでも伝わる共通の言葉で、わかりやすい禅の世界を多くの方に体験してもらいたいと思うのです。その中から一人でも二人でも、建長寺や円覚寺に参禅、あるいは入門してくださる方が現れるかもしれません。「禅の裾野を広くしていく」ということを私自分の生きがいとして、今後も取り組ませていただきたいと思っております。
宗さんも確か、お寺という場でいろいろな活動をされていますよね。お茶であったりとか。
白川 私は高校生の頃から茶道をやっております。侘び寂び(わびさび)といった日本文化が非常に好きで、それもあって研究の道に進みました。禅の思想はそういう日本文化のバックグラウンドになっておりまして、そういうところに興味を持っています。
禅宗のお寺というのは文化の発信地であり、文化を体現する場所である。そして我々禅僧も、文化を体現する存在である。そのように思っております。たとえば床の間の掛け軸を見ると皆さん日本的だなと感じられると思うのですが、ここにも禅宗の影響をみることが出来ます。そういう日本文化に地域の人々が接する機会を作るというのも、禅宗のお寺の存在意義だと思います。
お寺ではお茶会もやりますし、コンサートや講談会、もちろん坐禅会や写経の会もやっております。いつでも境内をきれいに掃除しておいて、そういった催しに来ていただいた方やお墓参りに来た方に、「お寺って気持ちのいい場所だな」と思っていただくことも大切にしています。
白川さんがお寺で主催している「寺子屋こうふくじ」(写真提供=白川宗源)子供を対象にした「こども坐禅会」(写真提供=白川宗源)
こういう活動は禅宗に限らずいろいろな宗派の方がなさっている通仏教的な布教活動だと思います。
私としては地域の中で信頼関係を築き、自分の禅僧としての姿を見てもらって、心に「なんかいいなあ」という思いを持ってもらう、それが理想かなと思っています。
安藤:今の茶道のお話をお聞きして、日常を生きることがまさに禅であり、それがそのまま文化や芸術になっているのだなと実感いたしました。芸術は特別なものではなくて、日常を生きながら、その過程で書や花やお茶に総合される、と。白川さんは、大学時代、そういった日本文化の研究をなされていて、それが後に禅とつながったというような感じなのでしょうか?
白川 私は修士課程までは、茶の湯の研究――茶道がなぜ成立したのかを研究しておりました。その頃はなんとなく禅宗を研究するのは避けていたのですが、建長寺で3年半修行して、曲がりなりにも禅僧になって、禅宗の持つ文化的影響力抜きに日本文化は語れないんだなと思い、博士課程に戻って禅宗の歴史や文化を研究するようになりました。
茶の湯の研究をされていた学生時代の白川さん(写真提供=白川宗源)
安藤 近代になりますと作歌や作庭、さらには茶道などの芸術と宗教は分けられてしまいます。また先ほど来話題になっております医学、心身を治す科学と宗教というのも近代では分けられています。しなしながら、お二人のお話を聞いていると、芸術と宗教を分けず、科学と宗教も分けないような、そういった地平におれら、またそういった地平を理想としているように感じられました。
■歴史を学ぶ意義
白川 日本の歴史を学ぶ意義について、私は大学の講義ではいつも最初にBack to the futureの話をしています。Back to the futureというのは「未来に向かって後退りする」という意味です。私はこの感覚を大切にしたいと思っています。「先日はありがとうございました」「先ほどはありがとうございました」と言ったときの「先」というのは過去のことです。「後日これをやりましょう」と言ったときの「後」は未来のことです。このような言葉は、視線の「先」が過去を向いていないと生まれません。つまり、日本人には過去を見ながら未来に向かってバックステップしているという感覚があり、それが言葉にも表れているのです。
現代を生きている私たちは、未来の方向を見て歩いているという感覚、後ろにある過去は振り返らなくても良いというが強すぎるのではないでしょうか。
未来に向かって後ろ歩きする感覚を大切にする。それは歴史に学びながら生きていくということです。過去のどういう経緯を経て、いま自分がここに立っているか。それをしっかり認識する。視線の先は過去だから、未来は見えなくて当たり前。だから見えない未来を不安に思うことなく、過去を学び、未来を予想して、今現在、自分が立っている場所でベストを尽くすほかない。こういうような感覚を養うことが、歴史を学ぶ意義だと思います。
大学で講義を行う白川さん(写真提供=白川宗源)
安藤 ありがとうございます。南方熊楠は生物学を学んでいましたが、前に向かうのみの進化論が嫌いだったそうです。後ろ向きに歩んでいくというのは、南方熊楠の生き方にも通じるのかなと思いました。
白川 南方熊楠はとても好きです。
安藤 南方熊楠がお好きなのですね。白川さんが南方熊楠や鈴木大拙、西田幾多郎などについてお考えになっていることはありますか? 実は近代仏教の研究者は僧侶ではない人が多いので、僧侶の方たちが、仏教を根幹に据えた近代の思想家たちについてどういうお考えをお持ちなのかを聞く機会はなかなかないのです。たとえば熊楠のどういうところがお好きなのか、そういったことでも構いませんのでお聞かせいただけますでしょうか。
白川 南方熊楠に憧れて、大学時代に熊野古道を歩いて生家へ行ったことがあります。明治時代というのは西欧化・近代化を目指した時代です。その中にあって江戸時代までの習俗や、鎮守の森の大切さを説くなど、郷土の価値を大切にしたところが好きですね。
■禅宗のお坊さんは自分勝手!?
白川 もう一つ、南方熊楠の好きなところは自由奔放、悪く言えば自分勝手なところです。
安藤 ははは(笑)。
白川 熊楠はお兄さんに借金して使い倒したり、まともに働かなかったり、自分勝手に生きたように見えます。しかし、そういうふうに自分の好きなことや好奇心に正直に生きた結果、周囲の人々に大きな影響を与え、後世にも様々な文化的遺産を残しました。そういう生き方に私は憧れます。
このような生き方は、禅僧の理想とする姿に重なります。禅宗のお坊さんにも、自由奔放、悪く言えば自分勝手な人が多いんですよ(笑)。しかし、他人と協調するばかりではなく、時には他人とぶつかってでも、自分のやりたいことに真摯に取り組んでいる姿は魅力的だと思いますし、その姿を他人が見て、何かしら感ずるものがあるというのは素敵だなあと思うんですよね。横にいる泰さんも、好きなようにやっていますし。
川野 あはは……。さすが宗さん、的を射たご見解(笑)。
白川 常識にとらわれることなく、自由奔放に生きることが、周りにいい影響を与えられるようになったらいいなと思いますね。禅僧の存在意義というのはそういうところにもあるのではないかと思います。
私から見るに、老師と言われる禅の本流を受け継いでいらっしゃる方は、やはりどの方も常識にとらわれない自由奔放さをお持ちだと思います。
禅宗の本分は、己事究明(こじきゅうめい)といって、己のことを究明することです。ですから、これを突き詰めていこうとすると、時には自分勝手に見えてしまうことがある。でもそれでいいんだと思います。
その一方で、私自身はそうはなれないところがあります。自由奔放な老師は格好いいと思いますし、自分の思うように生きている人は尊敬するけれども、自分はなかなかそうなれない。現代の社会のなかでは、私は臨済宗建長寺派というグループに属しているし、みんなで協力してやっていくことも大切だと思っている。
禅僧が禅僧らしく生きるためには、臨済宗建長寺派というような大きなグループは必ずしも必要ではありません。けれども、一人の力でできることには限界がある。だから仲間で集まって、私と泰さんのように、影響し合っていくことも大切だと思います。
そういう時には、やはり協調性も必要になってきますよね。お互いに好き勝手言っていたら喧嘩になってしまいますので。修行時代はよく喧嘩しましたけれども(笑)。
川野さん(左)と白川さん(右)(写真提供=川野泰周)
川野 しましたね(笑)。
安藤 鈴木大拙が英語圏で書いた文章には、風狂(ふうきょう)であるとか、自分のやりたいことを貫いていく老師の生き方などが強調されていました。それがアメリカの放浪文学にも影響を与えていますよね。
白川 禅はビートニクなどに影響を与えていますね。アレン・ギンズバーグやゲーリー・スナイダー、ヒッピーカルチャーとか、そういったところにも禅は影響を与えています。世捨て人のような生き方をした禅僧は歴史上たくさんいました。
川野 一休さんもそうですね。
白川 そうですね。一方、権力者の庇護のもとで日本文化を生み出すという流れもありました。ですので、禅のあり方というのは多面的ではありますけれども、深山幽谷で仙人のように生きるというのは、禅僧が理想とした姿のひとつであると思います。
(つづく)
(4)坐禅とマインドフルネス
(6)大乗仏教の中の臨済宗