アルボムッレ・スマナサーラ

【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「信仰と真理」です。

[Q]

    私はこれまで、極楽浄土があるのだという教えを信じていました。「阿弥陀様はいない」という長老の言葉が衝撃的でした。自分の信仰とお釈迦様の教えをどのように解釈したらいいのかわかりません。教えてください。

 
[A]


■すべての嘘を捨ててこそ悟りに達する

    悟りを開くというのは大胆なことなのです。すべてを捨てなくてはいけません。相当な勇気が必要です。今まで何を教わってきたとしても、信仰してきたとしても、ポイとゴミを処分するような感じで、自分の知識や体験や信仰や見解を捨てなくてはいけないのです。将来に対していくら計画的な期待があったとしても、それもポイと捨てなくてはいけないのです。ただ頭で理解しただけでは捨てられません。すべて瞬間にしか存在しないと発見した人が、一切を捨てることができるのです。
    ですから、世間のいろんな宗教で言うところの極楽浄土や天国や楽園と、真理はまったく違います。関係ありません。世間では嘘を言ってきたのです。例えば、「神様がすべてを創造した」という話はまったくのデタラメです。「イエス・キリストは我々の心配をして死んだ」というのも真っ赤な嘘です。嘘も休み休み言って欲しいものです。ローマ教皇は天国の鍵と言われています。しかし体調が悪くなって心臓発作でも起こすと、超一流の治療を受けます。変ですね。死なないために必死です。やはり死んだらヤバイと知っているのです。そういうわけで悟りに達したければ、世の中の嘘をすべて捨てなくてはいけません。

■「皆が言っている」話はあてにならない

    あなたの場合、極楽浄土があると何度も教えられてきました。では、教えた一人ひとりに「あなたは極楽浄土を知っているの?」と訊いてみたらどうなると思いますか?    結局は誰一人も知らないという結果になってしまうのです。ですから最初に極楽浄土があると言った人でさえ、本当に極楽浄土があるとは知らなかったのです。しかし、我々はバカですから「皆が言うんだからあるはずだ」と本気にしてしまうのです。

■生命の次元は無数

    生命というものには無数の次元があります。私たちはこの炭素(炭水化物)などで作られた体という物体があるものだけを生命だと思っていますが、それ以外は生命ではないと言い切ることはできません。あり得ません。あらゆる生命がいるのです。心があれば生命です。心は物質が無くても回転します。様々な生命次元があって、俗っぽく言えば地獄もあるし天界もある。しかし我々が知っている・イメージしているようなところではありません。あなたは地獄や天界に行ったことがないでしょう?    過去世では行ったことがあるのですが全部忘れているだけです。
    とにかく、どんな世界・次元なのかはわかりませんが、地獄(悪趣)というのは苦しみを栄養にする生命体の次元です。ですから、思う存分に悩み苦しまなくてはいけません。悩み苦しみのバリエーションは数限りなくありますから心配することはありません。その苦しみを人間に教える場合、とても面倒なのです。ですから、人間世界の物語を例にして教えるのです。例えば、餓鬼道に堕ちたら朝から晩まで糞を食べて生きていると説明します。そう聞くと「うわー、気持ち悪い」と人間にも実感できるのです。しかし、ものを食べられない餓鬼道で誰が糞をするのですかね?    物語ですから矛盾や問題があります。ですから、餓鬼道での苦しみを人間にわかるように説明しようとしただけです。我々人間には、朝ご飯に糞を食べなくてはいけないと想像したら、「おぇー、嫌だ」という気持ちになるでしょう。その嫌な気持ちを栄養にして生きていかなくてはいけない生命次元があるのです。どうですか、そういう次元には行きたくないでしょう。
    地獄は、言葉にならない比較できないほど酷く、想像を絶するほどの悩み苦しみを味わう次元なのです。畜生というのは、皆さんも知っている生命次元です。畜生というのは、動物や昆虫(鳥獣虫魚)などです。いつ殺されるかわからないという恐怖感を栄養にして生きているのです。一生その恐怖感で生きなければなりません。生きている間はその恐怖感から解放されません。畜生の世界では、他の生命たちにすぐ殺され食べられてしまう。ですから、野生動物などはずっと恐怖感を持っています。なぜ熊は人間を攻撃するのでしょうか。別に攻撃する必要はないでしょう。でも熊は人間が怖いのです。「コイツに殺されるかもしれない」という恐怖感です。その気持ちをエネルギーにして生きているのが動物たちです。地獄はこれとは比べ物にならないほど、凄まじく恐ろしい苦しみを栄養にしているのです。
    天界というのは、楽しみを栄養にして生きる次元です。様々な楽しみがあります。例えば、音を聞くと皆様は楽しくなったりするでしょう。歌や音楽のことです。音から栄養を摂っている。ある天界を人間に解説しようと思うと難しいのです。例えばある天界では二十四時間ずっと、あまりにも美しい音楽を聞いて生きている。作曲家のベートーベンよりも一億倍もの能力で作曲し演奏している。というふうに説明した方が分かりやすいのですが、実際はそうではありません。
    また、皆さんは風景を見たら楽しくなりますね。例えば立派な公園とか絵画とか、それは光(いろ)の情報です。そこで天界では美しい風景や景色を見て栄養を摂っていると説明するのです。我々の身体は炭素(炭水化物)で構成されていますが、しかし天界の彼らの身体は炭素でできているわけではありません。人間は米やパンという炭素を食べて生きていますが、天界では眼で栄養を摂って生きているのです。そのように説明されている様々な天界や地獄があるのです。我々には関係がありませんが。
    言いたいポイントは、例え天界に生まれたとしても、私(命)は瞬間でしか成り立たないということです。天界にいる生命も「私」という何か実体があるのだと邪見を持ってしまったら、今生の寿命が尽きると地獄に堕ちる羽目になるのです。心配することはありません。邪見があると因果法則により、悪趣へと心が流れていくのです。
    様々な天界があります。しかし、決して永遠不滅ということではないのです。それは真理としてあり得ません。無常でなければ生命は存在できませんし、していません。永遠不滅の極楽浄土や天国というもの、そういうものは無いのです。生滅変化しかありません。難しいかもしれませんが、そこら辺を理解してください。自分の信仰が揺らいだり壊れたりしたとしても心配する必要はありません。

■幸福は空から降ってこない

    他宗教が語る永遠の天国・永遠の地獄などがあり得ないと断言できるのは、存在とは瞬間瞬間の現象が生滅して成り立つからです。無常でなければ、何ひとつも成り立ちません。「極楽浄土はあり得ない」と断言して言うのは、お釈迦様が語られた因果法則の真理に反する概念だからです。極楽浄土の信仰者たちは、その境地が永遠不滅であるとは言っていないのです。そのポイントは仏教の精神に合っています。しかし、極楽浄土に往けばオートパイロットで解脱に達するという話は、あまりにも突拍子もない妄想概念です。解脱に達する道は八正道です。残念ながらこの八項目の中に「正精進」という項目があるのです。極楽浄土では精進する必要は無いみたいです。オートパイロットの世界ですからね。でも生命の基本法則は「どんな次元に生まれても自分自身で生きるために努力しなくてはいけない」ということです。地球に根づいて、移動することができず一箇所に留まっている植物さえも、努力して成長しているのです。
    自分の意志では何もしないでも、ただ居るだけで究極の楽しみを得て、そのうえ輪廻を脱出することさえできるのだと妄想することは、極端な負け主(ぬし)精神でしょう。普通の生命はいくら弱くても負けは認めたくないものです。ですから、極楽浄土信仰は異様な妄想だと思います。人間の成功は必死で頑張ったことの結果です。それでも、大した成功はありません。ですから、究極の幸福はオートパイロットで空から宝物が降ってくるように起こるのだと信仰することはあり得ないし、理性的ではありません。


■出典    『それならブッダにきいてみよう:こころ編3」

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