アルボムッレ・スマナサーラ

【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日は「地獄と、飢鬼道・畜生道は、どう違うのか?」という質問にスマナサーラ長老が答えます。

[Q]

    地獄と、飢鬼道・畜生道は、どう違うのですか?

[A]

    五道輪廻は、天・人間・畜生・餓鬼・地獄の五界(五道)です。あとから人間と畜生の間に「阿修羅」という次元が加わって、六界(六道)となりました。それがインドの信仰が割り込んだ結果かもしれません。阿修羅次元の説明は仏教にはないのです。
    順番で説明します。苦の多い三つの生命次元(apāya)のなかでの一番低い次元は地獄(niraya)です。極限に苦しまなくては生きていられないのです。それが人間に理解できないのでいろいろ物語で説明してあります。
    「お腹が空いたら真っ赤に燃えた鉄の玉を食べる」とか、「のこぎりで身体を切り刻まれる」とか、「溶岩の釜で焼かれる」とか、また「その釜から恐ろしい針で釣られる」とか、「釣られた生命にまた鉄の玉を食わせたり、身体を切り刻んだりして釜に放り投げられる」とかです。これは人間のイマジネーションです。理論として語るなら「苦を受けないと生き続けられない」という次元です。人間として殺人、強盗、強姦、聖者を
冒涜する人、背徳者など、重い罪を犯す人々が生まれ変わるところです。
    重罪を犯すことがなくても、嫉妬したり、人を騙したり、詐欺をはたらかせたり、恨みをもったり、執念深く、愛着・執着が激しいなど、精神的な問題がある人々は、死後、餓鬼道に落ちる可能性があります。
    餓鬼道は均一な次元ではありません。地球の人間と同じくバラエティが豊かです。餓鬼道の苦しみは地獄と違ってほとんど精神的なものです。気持ち的に「ない、ない、足らない、欲しい、欲しい」などの感情が生かされる衝動になっているのです。「ない、ない」と悩み苦しむために必要な身体と環境が揃っているのです。
    物語でこの状況を理解できると思います。たとえば、ある生命の身体が十キロメートルぐらいの長さとしましょう。お腹の大きさも四十階建てのビルが入るくらいだとします。頭部も身体のサイズに適った巨体だとしましょう。しかし頭部と身体をつなぐ首の部分がものすごく細い、ジュースを飲むストローぐらいの細さなのです。そしてこの生命は極限にのどが渇いている。渇きを癒すには百トンくらいの水が必要です。おあつらえ向きに目の前に川が流れています。しかし、だからといって水が飲めるでしょうか。口に入れた水がお腹に入るためには、ストローのように細い首を通らなくてはなりません。ストローを流れる水は微々たるものでしょう。お腹いっぱいに水を飲むまでには何百年もかかることでしょう。しかしのどが渇いているからすぐに水を飲まなくてはいけない。何百年もかかって完了する作業なんてとんでもない。ではこの生命はどんな気分でいるでしょうか。「ない、ない」「足らない、足らない」と、思う存分悩むことができます。「悩むことができる」ためには、十分な状況が揃っているのです。餓鬼道というのは、このような感じの苦しみを受けるところです。
    地獄は生きるために苦が必要な次元です。餓鬼道は恐ろしく苦をなくしたいと思う次元です。しかし受けるのは苦のみです。
    畜生の苦しみについて前に説明しました。生かされる衝動は「殺される、殺される」です。人間がかわいがって飼っている動物たちには、表面的には「殺される」という恐怖感はないように見えます。しかしそれは私たちの妄想です。
    動物の本能は変わりません。飼っている動物たちには人間に合わせなくてはいけないという苦しみがあります。動物たちにとっては耐えがたい苦しみなのです。人間に合わせることは、無理な話です。家畜の動物はもっとかわいそうです。人間の奴隷なのです。人間のやりたい放題の存在なのです。それが理解できないと思うならば、このようにイマジネーションしてみてください。巨大な鬼が来て、自分を連れていきます。頑丈な檻に入れられて、食べ物を与えられ、育てられます。病気になったら治療もしてくれます。しかしときおり鬼が自分の身体を調べて、「まだ十分太っていないな。食べるためにはもう少々待たなくてはいけないな」と言うのです。そんな状況で、それでも「私はなんて幸せ者でしょう。この鬼に大事に育てられています。この鬼が私をしっかり守っています」と思って幸福を感じられますか? これが畜生の生命の精神状態なのです。



■出典    『ブッダの質問箱』