慈悲で花開く人生
仏教では、慈しみの心を育てることは、智慧の開発と並んで基本となる価値であり実践とされています。
なぜでしょうか。
スリランカ初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老は『慈悲の瞑想〔フルバージョン〕人生を花開かせる慈しみ』(サンガ、2018)の中で、次のように言っています。
生命一個の幸せは、他の生命の命を脅かす多大な迷惑なのです。文学的な言葉で言えば「悪魔の仕組み」なのです。仏教が使う言葉は「輪廻」です。「輪廻の中で無意味に回転し続けるのだ、あまりにも恐ろしい循環だから、脱出しなさい」と、解脱することを推奨します。ほかに答えがないのだと仏教では説くのです。
このような、「一人の生命の幸福のために他の生命が不幸になる」システムを正当化しても、幸福になれません。輪廻そのものが「悪魔の仕組み」である、という深いところから、この問題を見なければいけないのです。我々は「生命を維持するために罪を犯しなさい」という生命システムに嵌められていることを、自覚して理解しなくてはなりません。(pp.060-062)
仏教には冷徹なこの現実認識があります。
実際私たちは、生きるために、牛を殺し、鳥を殺し、魚を殺し、その肉を食っています。恨みを持てば人も殺します。生命を仏教は有情と言いますが、私たちが生きるために犠牲になる生き物は感情を持って生きています。そこに私たちとどれほどの違いがあるのか。物質的、肉体的な制約を離れたとき、心に違いなどあるのだろうか。植物は有情ではないことになっていますが、生命でないと本当に言えるのか。
私たちは他者の犠牲の上でしか生きられないことを、仏教は現実としてまず認識することを求めます。
しかし、それでも私たちは生きている。ではどう生きればよいのか。
「生きている限りは罪を犯す、輪廻というシステムに嵌められている」私たちの生きる方法とはどのようであればよいのか。他者の苦しみを前提に自己の幸福を求めるという不条理な現実を生きていくには、智慧と慈悲が必要だと仏教は考えるのです。不条理な現実の渦中にあって、智慧で解決していく、慈悲で生きやすくしていく。
プラグマティックな方法論として、リアリストが提案するのが智慧と慈悲。そう言えるのではないでしょうか。
慈悲喜捨(じひきしゃ)を四無量心と言います。
慈しみ(mettā)は、友情を意味し他者を思いやり、他者の利益と安楽をもたらそうと望むこと。
悲(karuṇā)は、他者の苦しみを我がこととしてそれを取り去ろうとすること。苦しみを抜き去り、楽を与える。それが慈悲の本質といえるでしょう。
喜(muditā)は、他者の喜びや幸せ我がこととして喜ぶこと。
捨(upekkhā)は、偏りなく物事を見、心に平静さを保つこと。
いくつかの仏教辞典を紐解けば、以上のような定義にまとめられるでしょう。この慈悲喜捨をただの概念や知的な理解にとどめるのではなく、瞑想あるいは行動を通して具体的な実践として人生に落とし込んでこそ、その効果は発揮される。不条理な中に生きやすさが開けてくる。四無量心は無限に成長させていくべきものとされています。生命である限り、幸せを求めるならば、育てなくてはならない。
そして、理不尽な現実を成り立たせている縁起の構造、因と果の関係があればこそ、また四無量心の意味もあるのだと思います。
ダンマパダの冒頭の二つの偈はそのことを示唆しているように思います。
一 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、苦しみはその人につき従う。――車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。
二 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う。――影がそのからだから離れないように。
(中村元 訳)
心を清らかにする努力を怠ってはならないと仏教は説きます。慈しみの心をもって、他者に向かえば、自ずとその結果は現れる。慈悲の瞑想で願われていることは、もしかすると生命である以上、それを完全に達成することは永遠にできない理想かもしれません。完全に達成したらきっと解脱しているのでしょう。しかしこの現世を生きる最高の心のお役立ちツールが慈悲喜捨とは言えるはずです。
人生を少しでも慈しみの方向に向かわせるような特集を考えてみました。
四無量心を無限に拡大していって、人生を花開かせようじゃありませんか。
満開の花園、きっとそこは涅槃に違ありません。
【参考文献】
『慈悲の瞑想〔フルバージョン〕人生を花開かせる慈しみ』アルボムッレ・スマナサーラ[著](サンガ、2018)
『ブッダの真理のことば・感興のことば』中村元[訳](岩波文庫、1978)
『WEBサンガジャパン Vol.3』 特集「慈悲で花開く人生」 目次ページへ