【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】
皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「二つの死と死の恐怖」です。
[Q]
「私たちは瞬間、瞬間に生まれては死んでいる」という長老のお話を聞きました。そのことと肉体の死をどうしても同じとして考えられません。肉体の死に対して限りない恐怖を覚えますが、瞬間の死については気づくことさえもできません。この二つは違うのか、または同じなのか、ということについて教えてください。
[A]
■生命の最小単位の細胞も瞬間も留まることができない
これは同じことです。瞬間の死と肉体の死(機能停止)は、全く同じことなのです。全てが瞬間に変化していきます。例えば細胞分裂や遺伝子のことなど、物質について科学の本でも読んでみれば理解できます。遺伝子もすぐに壊れてしまうもののようで全く長持ちしません。細胞がひとつ新しくできたとしてもすぐ壊れていくのです。細胞の中にある核小体の仕組みなど学んでみてください。その中にあるDNAというタンパク質合成の設計図を持つ遺伝子も決して自由ではいられない。核小体の中で様々なエネルギーが作用してDNAが分裂し、それで細胞は終わりです。それから別の物質を取り入れて、前の細胞をコピーして新しい細胞を作っていくだけです。細胞ひとつを見ても、今も一秒でどれぐらいの細胞が死んでいるのか知識として理解できると思います。そして細胞が死ぬ代わりに、複製した新しい細胞が生まれてきます。それも死と生です。新しい細胞は死んだ細胞と同一ではありません。私たちはそんなことにも気づきません。愚か者なので、ただ身体を見て「私がいる」と言っているだけです。「わ・た・し・は」と声を発する間にも、この身体は刻一刻と変化しているのです。
■死という現象をどのように捉えるか
死という問題は、エネルギーの働きとして見なくてはいけません。皆さんは死について質問する時にでも、誰もが唯物論を前提として質問をしています。物質という何か実体があるという前提で見ると、死の問題は困った結論になってしまうのです。物質というモノは無いのです。科学を知っている人なら素粒子レベルで考えてみたらどうでしょうか? 素粒子は常に不安定で止まらないものなのです。ずっと変化し続けるしかない。不安定な細胞の塊でできている肉体が「変わらない私(自我)がいる」と考えることは成り立たないのです。私たちが錯覚として実感する「私」なるものは死ぬのを怖がります。どうぞ勝手に怖がってください。「私」というのは初めから錯覚・幻覚であって、その錯覚のせいで死ぬことが怖くなっているだけです。なぜ錯覚・幻覚があるのかというと、それを作った原因があるからです。自我の錯覚は身体を原因として生じたものなので、身体が壊れることにものすごい恐怖を感じるのです。なぜ恐怖を感じるのかと言えば、それは自我の錯覚、つまり「私」という妄想概念があるからです。自我の錯覚がある限り、人は死を恐れるのです。
■変化することが死であり、肉体の死は瞬間の死の総称
それで肉体の機能停止も、実際には瞬間、瞬間に起きていることで、肉体は前より古くなっていきます。今の肉体は前より機能が劣ることになる。次に生まれる肉体も、前より上手く働かなくなる。そのように瞬間毎に肉体は機能低下してゆき、「もうこれ以上は動かない」というところで機能がストップするだけなのです。ということで、人は毎日死んでいるのです。二十歳の体力や精神力や活動力を保ったまま八十歳になって死ぬわけではありません。もし八十歳の人に二十歳の体力や精神力があるとしたならその人は死なないでしょう。
■一切は変化し続けることで成り立つ
現代知識として、寿命が長く、生まれた時点から増えないとされる脳のニューロンという神経細胞があります。しかし、神経細胞もやはり変化していて、新しい神経細胞が生まれているのです。ですから、脳の開発もできます。人間は五根(五官)の奴隷で脳を活動させているのだから、脳の機能はそれほど使っていません。見る・聞く・嗅ぐ・味わう・肉体で感じる、その程度です。それに基づいて思考をします。ですから脳をフル活用しているわけではありません。
■物質を観て心を理解する
五根の活動から離れて、何か新しいことを試してみると、脳は「これはどうするのか?」という衝撃を受け活動し始めます。わかりやすく言えば、瞑想というのは五根とは関係無い行為なのです。瞑想も最初は五根の情報から観察し始めるのですが、眼耳鼻舌身の関わりから離れたところが第一禅定だと言っています。これは脳の開発でもあります。しかし、仏教では脳の開発だとは言いません。仏教では心が上達したとか成長したと言います。脳開発というとすぐに唯物論に陥ってしまうので注意しなければいけません。それでも、脳の神経細胞の働きを見て、それなりのデータに基づいて、物質からでも「心とは何か?」と理解できることはあるでしょう。
■精密に観ると生と死の境(死の定義)はあやふや
仏教の立場からだと、心を成長させて解脱に達しなさいと言っていますが、それでも修行のために肉体の支えが必要になります。その肉体も瞬間、瞬間に死んでいっているのです。脳の神経細胞がどのように死ぬのかはわかりませんが、やはり神経細胞も仕事をサボったり・怠けたりすると死んでしまうのです。認知症というのはわかりやすい例として、脳の機能低下を起こし、活動しなくなることです。完全に脳の機能が停止したわけではありません。ということで、医者にも人の死は何なのかと明確に定義することができないのです。脳死が死なのか、心停止が死なのか、日本では伝統的に心停止が人の死であるとしています。西欧では脳死が人の死であるとしているようです。見方によって死の定義すら変わってしまうのです。
■地球上にあるものは循環している
そういうことで、死の定義によって臓器移植などにも影響が出ることがあります。肉体を機械に繋げることで呼吸を維持しているかもしれませんし、管から栄養を与えられて細胞は生きているかもしれませんが、脳の機能が完全に停止しているなら、その他の臓器という部品をリサイクルして使うことは悪いことではありません。臓器提供という肉体の部品をリサイクルすることで他の人が助かります。地球上にあるものは全てリサイクルで成り立っているのです。この法則を壊そうとしているのは人間だけです。リサイクルすれば、地球にある生命体や植物が生き続けることができます。東京のような都会・都市の文化では、最初にリサイクルの法則を壊しています。ものすごい量の食べ物を廃棄し、無駄に燃やしてしまうのです。それらも地球に還さなくてはいけないのです。食べ物も地球が作ったものですから。ではこの都会や都市ではどうするのかと少し考えれば答えがあります。私たちが燃えるゴミとして出す生ゴミを分別して、リサイクル工場で肥料にすれば相当な量のゴミが減る。やろうとすればできますが、やろうとしないだけです。ということで、人の体であってもリサイクルできるならやるべきです。
■一般人の死の恐怖は妄想に過ぎない
「私のもの」「私の体」「私の魂」という執着は麻薬中毒のようなものです。そんな思考で生きているからこそあらゆる問題が起きるのです。ということで、自分の肉体の死が怖く感じるのです。質問では肉体の死について限りない恐怖を感じると言われていましたが、そんなものは妄想です。あなたには死の経験があるのですか? まだ死んでいないなら明らかに妄想です。死ぬことが限りなく怖いのであれば、人は自殺しないはずです。しかし、毎日たくさんの人が自殺しているのが事実です。死ぬ人にとっては、自分の死はどうということはありません。死ぬ時には、肉体が機能停止しそうだということはわかっていません。死に際は苦しいかもしれませんが、病院ならいろいろと薬があるので肉体の苦しみを和らげてあげることができます。しかし、仏教的には苦しみを感じた方が良い場合もあります。苦しみを感じることで頭が冴えるということもあるのです。苦しみを感じることで肉体への執着を離れる。そういう方法で死後は善趣へ心の流れを引っ越しさせることができます。死は普通のことであって、死はごく当たり前の出来事です。
■短い命だから、死の恐怖を使って心を清らかにすることが大事
仏教では、死への恐怖感を大事に使います。「死んだらヤバい」という気持ちを大事にするのです。いつ死ぬかわからないから「この短い間で心を清らかにしよう」「ふざけて生きている場合じゃない」などと心を戒めるのです。人はふざけて生きている余裕はありません。死ぬまでに善行為をし、心の汚れを落とすべきです。この大事な仕事があるにもかかわらず、唯一の大事な仕事を一番後回しにして、今日は何を食べようか? この野菜はどう調理すればいいか? 簡単に金儲けする方法はないのか? どれぐらい貯蓄すれば老後安泰か? 健康で長生きするためにどんな運動をするべきか? そんなことばかり真剣に研究しているのです。例えどんなことをやったとしても、死を止めることはできません。であるならば、この死の恐怖感を有効に使った方が良いのです。「私は、まだまだ若いから死ぬわけない」と思うことは冗談では済みません。誰もがいつ死ぬか変わらないのです。与えられた時間、残っている時間はものすごく短い。その短い時間の中で、「心を清らかにする」「自我の錯覚を破る」という試験に合格しなければならないのです。
■出典 『それならブッダにきいてみよう: こころ編4』
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