アチャン・ニャーナラトー


イギリスにあるテーラワーダ仏教僧院のアマラーワティー僧院に長年止住する日本人比丘のアチャン・ニャーナラトー師の法話会でされた法話から、参加者の質問に答えたお話を、採録いたします。掲載する質問は、実際に読み上げられたテキストをもとに、質問の内容を変えず、個人が特定されるような詳細は割愛するなど変更を加えています。

第4回    痛みと心


【問い】

    慢性の疾患で病院に通っておりまして、不定愁訴による身体のつらさを感じる時が多々あります。
    このところ、呼吸だけに気づきを向けて集中するようにしていると、身体の感覚が楽になって落ち着けることが増えてきました。
    楽になりたいという気持ち、欲が強く、通勤の移動中や仕事の休憩時間によくやっているのですが、これだと呼吸に逃避しているように感じ、苦痛や嫌悪感をもっと観た方が良いのではないかとも考えてしまいます。
    病気や身体が苦しい時の瞑想の実践方法や注意などございましたら、アドバイスいただければ幸いです。



【回答】

■逃避をどう捉えるか

    この方は慢性疾患で、不定愁訴による身体のつらさを感じる時が多々あるとのこと。しかし、呼吸の瞑想で「身体の感覚が楽になって落ち着けることが増えてきました」と書かれています。それでいいと思います。身体が楽になるということですから、問題なく続けてください。通勤中や休憩時間によくやられているそうですが、どうぞ続けてください。
    ただ、この方は「これだと呼吸に逃避しているように感じ、苦痛や嫌悪感をもっと観た方が良いのではないかとも考えてしまいます」と書かれています。もし、仏教の本や教えなどで、「自分の痛みなどを感じたら観察しなくてはいけない」ということを習われていて、本当は観察しなくてはいけないのにやっていないので自分は逃避していると、つまり、決まりごと、とにかく従わないといけないルールのように思ってのことでしたら、また、楽であるのが間違っているかもしれないと考えておられるのでしたら、それは全然気にされないでください。
    けれども、実際に、「逃避している」と自覚している、あるいは思い当たる節があるということでしたら、「逃避している」のを観察されて、何かから逃げていることがあるのであれば、それを観察するというのも勉強だと思います。
    仮に何か問題があったとします。その問題を見ないでおくために呼吸を見ていると気持ちがいい、心が楽だ、身体も痛くない、でも心の問題は未解決だというような場合もあります。そのように、心を何かに集中することで問題が一旦見えなくなり、楽になることは普通にあるわけです。そういうことを指して逃避と言えなくもないです。ですから、普通に観察されて、「本当のところは、引っかかっているものがあるな……」ということでしたら、それも考察されたらよいと思います。
    しかし、身体のつらさに困っておられているのが、実際に呼吸の瞑想をすると楽になるのでしたら、これからも必要だと思う時に行って心身を休められることは全く問題ないと思います。

■二つの痛み

    もう一つ。この方が「苦痛や嫌悪感をもっと観た方が良いのでは」と書かれています。その時の苦痛というものには、慢性疾患からくる身体的な痛みと、その身体的な痛みに対する「なぜ、私だけこんなことになるのだろう」とか「この痛みはどうしてこんなにも治らないのか」といった嫌悪感などとしての苦痛の二種類があります。この、身体的痛みに加わる嫌悪感、心理的痛みについては、見ていく価値のあるものと思います。
    痛みを見ることで多くのことを学ぶことができます。痛みがあると、普通は、欲しくないからそれを無くしたいと思います。それがはっきりした肉体的な痛みのこともあれば、「この人とは二度と会いたくない」とか、「この状況には居たくない」といった心における痛みもあります。その時に、この苦しみを観察することが大切です。
    仏教には、「苦しみ」と「苦しみの原因」と「苦しみの終わり」と「苦しみの終わりに通ずる道」があるとする、四聖諦の教えがあります。「苦集滅道」と漢訳で言われるものです。そこにある大切な意味合いは、苦しみと苦しみの原因ということを勉強すれば、本当の問題はどこにあるかという学びになるということです。
    つまり、体が痛い時は「この痛みはどういうことだろう?」と見てみる。純粋な肉体的な痛みだったらその痛みだけのことですが、嫌悪感という痛みには、「いやだ」、「欲しくない」といったネガティブな執着があります。普通、執着と言うと、「何かが欲しい」、「失いたくない」という形のものを考えますが、ここでは逆向きの心のあり方としての執着です。

■執着―苦しみと苦しみがない状態の鍵

    たとえば、手をつねると(自分の手の甲の皮膚をつまみ上げて見せる)痛いと感じますね。手をつねれば、当たり前に痛いです。でも、痛いけれどそこまでで、心の痛みはありません。自分でつまむ手を放したら終わりですから、何も心配していません。これ以上の痛みにならないのがわかっています。皆さんも僕を見ていても心配しないし、する必要もない。自身で想像しても、この痛みはそれで終わるというのがわかるわけです。
    ところが、不定愁訴などいろいろな形で痛みがある時に、それプラスが来る可能性があるわけですね。「いつ痛みは無くなるのだろうか」とか、「いったい、どうして私はこんなことになってしまったのだろう」と、執着がそこに現れます。
    ただ、ここで気をつけたいのは、私たちが「執着」という言葉を使う時、どうしてもその経験を悪者にしてしまうことですね。「執着があるのは悪い人間だ」、「修行者としてできていない」、「執着があるのは間違っている」、そんなレッテルを貼ってしまうかもしれませんが、執着も人間の心の一つの側面だから当たり前に現れるわけです。それは私たちが持っている業(ごう)と言いますか、過去からの心の傾向、パターンから現れてくるものですよね。そして、それに対してどう出会うかというのが、実際の場面での学びになってくるわけです。
    そういう意味で、痛みがある時に「あれ、この痛みってどういうこと?」、「嫌悪感ってどういうこと?」、「なぜ、こんなに心が重くなるの?」ということを自分でも気づいていく。そうやって観察することで、「なるほど、これが執着か。これが心の自由とそうでないこと、あるいは苦しみと苦しみがない状態とを分ける核心のポイントなんだ」ということを学ぶ。
    これは、仏教を学ぶ上でと言ってもいいし、普通に生きていく上でと言ってもいいですが、とても大切なことです。ただ、だからといって、いつでもそれを強引にやればいいかというと、そのように決めつけるのは気をつけたいと思います。本当に痛い時は、冷静に吟味するのはなかなかできないことなのですから。

■自分のテーマとして学ぼう

    質問された方の場合にもどって、まとめますと———
    身体のつらさを感じるとき呼吸に気づくことで楽になるとのことで、それは素晴らしいことです。必要に応じて必要なだけ活用されてください。「呼吸に逃避しているように感じる」と書かれましたが、そんなことは全然ないです。
    もし、嫌悪感があって、「この心のあり方が自分の生き方に、だいぶ影響している」と感じるなら、それを観察されてください。ただし、「今日は心が元気だから」とか、「今日だったら、やりたいかな」といった適当なタイミングで、という限定もありと思います。仏教や瞑想の本には「絶対行う」とか、「痛くても頑張る」といった表現があるかもしれませんが、あまり無理をしないで、できる範囲でというアプローチも賢明かと思います。つまり、(痛みとそれに伴う執着という点での)そういった吟味も必要だということは心に置いておいておく。少し大らかに構えて、タイミングが合う時に「自分のテーマとして学ぼう」ぐらいでいかがでしょうか。


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協力:アチャン・ニャーナラトー師「法話と瞑想の会」スタッフ
(第4回テキスト制作協力:篠原知子、森竹ひろこ)

アチャン・ニャーナラトー師「法話と瞑想の会」は毎月オンラインで開催されています。詳細は下記をご参照ください。(https://ajahn-nyanarato.amebaownd.com)