アルボムッレ・スマナサーラ

【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「意欲」です。

[Q]

    意欲(chanda チャンダ)は、どのような訓練で育てることができますか?    また貪瞋痴から起こるchandaは、どのような訓練で弱められますか?

 
[A]


■意欲とは一般的には「やる気」

    意欲について俗世間的な答えは、皆さんも思いつくでしょう。ここでは俗世間では考えられない、ブッダの智慧でしかわからない範囲を答えてみたいと思います。一般的に意欲というのは、「やる気」のことですね。やる気をどう育てるのかということは、世間的にもよく議論されている話です。

■悟りに達する意欲とは 死の実感から現れる

    では、私は純粋なブッダの立場から答えを出します。仏教で意欲(やる気)を育てる方法というのは、「今の瞬間に死ぬかもしれない」「明日まで生きられる保証は無い」と念じることです。そのように念じればすぐに「では、どうするべきか?」「このままで良いのか?」「煩悩を断たなくてはいけない!」という、強烈なパワー・意欲が現れるのです。今日死ぬかもしれない、明日生きる保証は一切無いとなれば、やるべきことは修行しかありません。他のどんなことも無意味です。それぐらい強烈なやり方で意欲を作らなくてはいけません。これは仏教でも本格的に悟りを目指す場合のやり方です。

■「やる気」はいつでも優柔不断

    「やる気」というのは、上がったり下がったりするもので一定しません。だから、その都度やる気を確認して、「なぜやる気が起こらないのか?」と調べてみる必要があります。大抵は怠け(無知)が原因です。あるいは、欲で何か他のことをやりたがっている場合ですね。テレビを見たいとか、映画を見たいとか、「今は瞑想する時間だけど、あのドラマの放送時間でもあるし、どうしようかな?」となどと迷う。「じゃあドラマは録画して後で見よう」と思って瞑想しても、結局は心がドラマという対象に引っかかって瞑想にならなかったりする。そのように怠けや欲で心が行ったり来たりして、優柔不断になって必ずやる気を失ってしまうのです。意欲・やる気とは、心の活発性です。常に心を活発に保つということは、一人ひとりの宿題でもあります。

■何もしなくても貪瞋痴の意欲だけは育つ

    貪瞋痴から起こる意欲ならば、いとも簡単に出てきます。欲が起こって何かをしたくなると元気に頑張ります。怒りが沸いてきて何かしたくなると、それも活発にやります。しかし、貪瞋痴から意欲が起きたなら、それは壊さなくてはいけません。反対に、貪瞋痴を失くすためには、善の意欲を苦労して育てなくてはいけないのです。田畑の世話と同じです。雑草ならいくら除去しても、すぐにまた生えてきてどんどん伸びますが、私たちに必要な野菜などは、ほんのちょっと手を抜いただけで育たなくなるのです。あるいは形が悪くなり売り物にならなくなったり、食べられなくなったりします。畑で野菜を作っている人たちは、いつも手を加えて面倒を見てあげます。葉の状態や、虫に喰われていないか、栄養や水が行き届いているのか、日光が適当に当たっているのかと確認します。しかし、何の手入れをしなくても周りの雑草はすくすく成長していく。田畑を耕す人は必死で雑草を取り除きます。自分が育てている野菜は、苦労して丁寧に面倒を見てあげて、何とか収穫できるのです。貪瞋痴の意欲は雑草と同じで、すぐ取り除かなければいけません。放っておくとあっという間に心は雑草だらけになってしまうからです。田畑どころではなく、もう雑草しか生えない状態になってしまいます。

■一人ひとり意欲を育てる工夫が必要

    貪瞋痴の意欲を抑える方法というのは、私たち一人ひとりが工夫をして見出さなくてはいけません。質問として「どんな工夫がありますか?」と聞かれていますが、それは個人個人で試してみて、「善の意欲を育てるために私はこんなふうにやっている」などと互いに話し合って意見交換するのも良いでしょう。他の人の工夫を自分でも試してみたりして、私には合わないと思ったらやめる。そのようにいろいろと試してみるのです。そうやって、正しい意欲、善の意欲、貪瞋痴を失くすための意欲を育てた方が良いのです。

■「今やるべきこと」を逃さない

    仏教の答えは最初に言いました。仏教では「早く解脱に達しない」と一貫して教えています。「そう言われても、今日は腰が痛いから」「ご飯を食べ過ぎて眠たい」「明日から瞑想します」とか、そんな言い訳は通用しません。仏道は悟るための実践ですから、甘い話ではないのです。今日死ぬかもしれない、明日生きている保証が無いと念じて意欲を育てることです。
    私たちは日々年を取ります。日々能力が衰えていきます。それなのに、やるべき仕事を明日に延期するのですか?    もっと老いてから、もっと弱くなってから仕事をしようと言うのですか?    来年は頑張って瞑想しようとか、定年退職してから修行に励もうとか、そうするとあなたはくたびれた年寄りです。体力は衰えて、脳の機能もかなり低下しているはずです。頑張る・精進するという力も弱くなっているのです。
    そう考えればダラダラしている場合ではありません。今の瞬間にやるべき仕事をやっておかないと、残るのは後悔だけです。「明日やります」ということは、本当は成り立たないのです。今日やるべきことを明日に後回しにすることはできません。このことを軽くみてはいけないのです。今の瞬間にやるべきことは今しか出来ないのです。後でやろうとしても意味がありません。学生の時に勉強をさぼって受験に失敗したとしましょう。その人が年を取ってから、古い教科書を持ちだして受験勉強をやったからといって、失敗を取り戻せるでしょうか?

■意欲も瞬時に変わっていき後戻りできない

    今やるべきことは今やらないといけないのです。明日では遅いのです。今やるべきと思っても、条件によって実現できない場合もあります。例えば私が今うなぎを食べたくなったとする。今は説法中ですから、終わってからどこかでうなぎを食べようと思っても、説法が終わる頃には店は閉まっているでしょう。「では、明日うなぎを食べよう」と思う。しかし、明日になったら、うなぎを食べたいという意欲は消えているかも。その場合はそれで終わりにしなくてはいけないのです。うなぎを食べたいと思った人が、今日は食べられなくて明日か明後日にうなぎを食べたとしても、今の瞬間に生まれた意欲・気持ちと違うものになっているのです。ですから、過去を引きずらずに、すっぱりと気持ちを切り替えることも必要になります。

■意欲があっても実行できるかはわからない

    ただ、何でも今、実行することができるわけではありません。世の中にある無数の「今やりたいこと」から、仏教的には、貪瞋痴の意欲は全部カットして、その中から第一優先の意欲を選ぶのです。今やりたいことが百あるとします。今の一分間で百を実行することはできません、せいぜい一つでしょう。その百の中から優先すべきものを一つ選んで実行する。一般人が優先するのは、常に貪瞋痴の意欲です。仏教徒の場合は、貪瞋痴を失くすことを常に第一優先とするのです。

■プライドを使って意欲を強化する

    世間には「プライド(自尊心)」という言葉があります。仏教心理学的には、あまり使わない方が良いのですが、あえて使ってみることもできます。仕事を後回しにすると何となく情けないし、結果も悪くなる。瞑想にしても「明日やろう」と後回しにすると、どこか自分が情けなく感じるのです。つまり、自分のプライドが傷つくのです。そこで、今やるべきことをしっかりやって「できました」と充実感を得る、そうやってプライドが傷つかないように守る・大事にするという方法もあります。この場合のプライドは仏教専門用語としての「māna(マーナ 慢)」ではありません。傲慢という意味ではありません。自分の尊厳が傷ついたとか、情けないとか感じることです。自己嫌悪とも言えるかもしれません。このプライドをバネにして意欲を強化することもできます。貪瞋痴に負けるものかと抵抗する気持ちを起こすのです。

■「言い訳」は意欲を削ぎ そして後悔へと導く

    それから、意欲が無い人はよく言い訳をします。プライドが傷ついた時に、何か言い訳をしてプライドを守る・保とうとするのです。言い訳してはいけません。揺らいだ意欲がさらに弱くなってしまいます。だから、言い訳するのではなく、「言い訳しない人生にするぞ」と奮起して決めれば、それだけでも今やるべきことを実行する力になります。意欲が曖昧・中途半端に揺らぐこともありません。
    意欲が曖昧・中途半端だと「なぜ私は、今日一日こんなだらしなく過ごしてしまったのか?」と悩む羽目になって、その悩みに対してまた言い訳をあれこれ探し出したりします。体調が悪かった、雨が降っていた、寒かった・暑かった、大きなニュースがあったから云々……と、言い訳を作っているうちに何もできなくなるのです。とにかく、いくつか例をあげましたので、皆さん各自、日常生活の中で意欲を育てる方法を発見してみてください。



■出典    『それならブッダにきいてみよう:さとり編2」 

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