アチャン・ニャーナラトー


イギリスにあるテーラワーダ仏教僧院のアマラーワティー僧院に長年止住する 日本人比丘のアチャン・ニャーナラトー師の法話会でされた法話から、参加者の質問に答えたお話を、採録いたします。
ニャーナラトー師は京都大学の医学部を卒業し医師国家試験を受けてまもなく、精神探究のために世界へと旅に出て、遍歴の末にタイ国にあるアチャン・チャー師の森林僧院に出会い、出家して現在に至ります。2016年ごろより帰国の度に、日本の法友により日本各地で法話会が開催されていましたが、現在はコロナ禍のため、英国の僧院とインターネットで結んでのオンライン法話会が毎月開催されています。
法話会の中では毎回のテーマによる法話とともに、テキストで寄せられた参加者からのさまざまな質問に答えておられます。文脈を読み込み、言葉の背景を洞察し、慎重に選ばれた言葉でつづられる回答の言葉は、定型ではない生きたダンマの言葉と言えるでしょう。
そんな質疑応答を採録し、連載していきます。
掲載する質問は、実際に読み上げられたテキストをもとに、質問の内容を変えず、個人が特定されるような詳細は割愛するなど変更を加えています。

第1回    誰にもフェアな「カンマ(業)の法則」


【問い】

    ある日、スーパーマーケットでレジの列に並んでいたら私のすぐ後ろの女性がすごくイライラしていました。
    カゴで大きな音を立てて置いたり、たまたますぐ前にいた私に向かって捨て台詞を言ったりです。
    女性はマスクをしていましたが怖い顔をしているのは分かりました。
    質問は「見ず知らずの人からのとばっちりに対してどのような心持ちでいるのがよいか」です。アドバイスをお願いします。
    その女性とはもう二度と会わないと思いますが、とても嫌な気持ちで、家に帰ってからもモヤモヤしました。
    帰り道で『歩く瞑想』をしましたが効き目はありませんでした。



【回答】

    アンラッキーな日でしたね。まさしくとばっちりと言いますか、こういう事は誰にでもあるかもしれません。書いておられる内容からすると気持ちのよい経験では全くないわけで、嫌な気持ちになるのも当然かもしれませんね。僕自身も「このような目にあったら、どうなんだろうな」と考えてしまいます。
    こういう時に一番ためになるところ、帰っていくところというのは、やはり私たちが常に気をつけていたい「業(カンマKamma)の法則」だと思います。

 「業」と聞くと、 古い、縛りつけるようなイメージを持つ人も多いかもしれませんが、そうではなくて本来の意味に帰っての「業の法則」です。
 この業の法則は大切な教えではあるのですが、他のお釈迦様の教えと同様、正しく理解して、正しく当てはめることがとても重要です。正しく理解し、正しく活用すれば、その結果、心は静かになると思います。
    しかし、業という言葉や概念を当てはめることで、たとえば、他人を見下したり、あるいは自分が落ち込んでしまったり、自身に対して罪悪感や心配などが出てくるとしたら、たぶん使い方が正しいものとなっていません。
    よく言われるように、お釈迦樣の教えは薬に例えることができます。薬はちゃんと飲めばそれに応じて効果もありますが、間違って使うと問題が出ます。業の教えの扱い方はまさにその典型で、「あの人はバチが当たった」とか、「私は業が深いから」という使い方をしたとき、そこで何が起こっているかと言うと、業という言葉、概念で人を攻撃したり、自分を追い詰めたりしているわけです。これは、正しくない、間違った使い方です。
    業の法則はパワフルなツールであり、間違って使えば毒となりえます。でも、きちんと理解して正しく使えているときは、心はすっきり と、そしてはっきりとするはずです。

    この業の法則は誰にでも当てはまりますし、もちろんこの女性にもそうです。質問された方は、「マスク姿ではあったが恐い顔」「カゴで大きな音を立てて」と書かれていますので、この女性の心の状態はどうやら相当なように思えます。どういう理由があったかはわかりませんが、とてもイライラしている。その場で何かがあったのか、過去の出来事が影響しているのか、あるいはそういう性格の人なのか……。ひょっとしたら僕の勘違いかもしれませんが、書かれている露骨な様子から想像してしまう通りだとすると、この人はまさに苦しみの中にいると言えます。

    業の法則というのは、特に心の状態に関わっています。心の状態に基づいて、それが私たちの言葉に現れたり、行為となって現れたりするわけですが、業の法則で述べられる「因(原因)」と「果(結果)」を考える時、この心の状態こそが因であり果であるということです。
    たとえば、このレジにいた女性のような苦しい、辛い心のあり方。それはさらに平気でまわりに当たり散らしかねないような心の状態なわけです。この方は何があったにせよ、自分の心をそういう状態にしてしまっていた。それが今、結果として現れているわけですが、そういうあり方をこの女性が放ったらかしにして生きているとしたら、それがまた原因となってその傾向が繰り返されて、さらなる辛い結果を生み出していきます。
    つまり、いつもこういう事をしている人は、生き方全体もそのようなものになりかねません。人間として生まれてきて、カッカ、カッカと、イライラして生きていくというのは健康から考えても身体に悪いことですし、まわりにいる人も嫌な思いをすることでしょう。そんな人から普通の人は遠ざかっていくでしょうし、仲間ができるとしても、同じようにカッカ、カッカとする人同士で盛り上がり、その傾向をさらに助長しあうということになりがちなように思います。

    このように、心のあり方が、生き方や人生全体の方向まで作っていってしまう。もちろんこの方が、たまたまその日に限ってこのような状態だったのであれば軽傷ですが、いつもこのようなあり方を放ったままにして生きているのであれば、もったいないことだと思います。私たちの心や生き方を白い紙に例えると、この方はわざわざ自分で真っ黒に塗ってしまっている。黒く塗った結果、その黒は自分のまわりにベッタリとまとわり付くわけです。
    原因は自分にあるし、結果も自分に返ってくる。因果の関係はすごくフェアなあり方です。別に誰かがバチを当てるとか、どの人が間違っているとか、間違っていないとか、そんな話ではありません。紙を真っ黒に塗るのか塗らないのか。あるいは、その事を自覚しているかどうかが、次の瞬間の心のあり方にもなっていくし、さらには友達や環境や生き方を方向づけて人生全体を作っていく。このように理解すること自体はそんなに難しい話ではないと思うのですが、いかがでしょうか。

    繰り返しになりますが、因と果は心というものが一番ダイレクトな、肝要なところです。そして「なるほど、こういうことだから、各々一人一人がきちんとしないといけないわけだ」と思い至る。つまり「誰それを考えたり責めたりするのではなく、正しく見守っていく対象は、いま、ここにある心のあり方に他ならない。」という確かなはっきりした自覚になるわけですね。それは、もちろん、私の業の方がひどいとか、誰それの業よりは上等だとかいった、比較に陥ることでもなければ、個我へのとらわれを強調しているのでもありません。それは、自身の正しいあり方の「いま、ここで」を取りもどす、淡々とした、すっきりとした自覚です。
 
    仏教では、他者に対する心のあり方として「慈悲喜捨」(慈しみ、同情や思いやり、共に喜ぶこと、平静な心)という四つの心が説かれます。最後の「捨」は「捨てる」という字が当てられていますが、それは文字の通常の印象からくる否定的な「捨てる」という意味合いではなく、一人一人が「カンマ(業)の法則」の前では全くフェア(公平)であるという理解が、その平静な心のもとになるものとしてあります。
    マーケットでレジの前にいた女性にも、そこに居合わせたこの方にも、業の法則があるわけです。今しゃべっている僕も、聞いている皆さんもそのことは同じです。全くフェアです。
    そのことをはっきり見ると、今までは「誰それが悪い?」とか、「どうしてあの人は?」とか、「なんで私が?」「今日に限って?」とか思っていたかもしれませんが、そういう話ではないとすっきりします。もっと大切なこと、根本的なこと、今何が起こっているのか、我々が気をつけなければいけないこと――それは結局、業の法則というわけです。
    原因に基づいて結果も、一人一人に淡々と生じる。善い行い(善い心による行い)には善い結果(幸せな心)がもたらされ、ひどい心による行いには、それに応じた心という結果がもたらされる。他の誰かの判定や説明を待つこともなければ、何かの力によるのでもない、淡々とした法則です。そして、私たちはそのことを自覚して、責任を持って生きていくということです。

     怒りだの苛立ちだのがあっても、それが全く当たり前になって問題として自覚されなくなったら、ちょっと大変ですね。私たちもそんなふうにはならないよう気をつけなければと思いますが。
    しかし、現実にこういった場に居合わせてしまうと、なかなか冷静にはできないものです。ですから特に問題のない時から、あるいはこうやって話を聞いた機会に「業の法則」をもう一回よく吟味して、皆さんご自身の中に正しく取り込んでいただきたいと願っています。

    業の法則は自分自身を省みたり、あるいはまわりの人や世の中を見るときの、とても大切な物の見方だと思います。私たちは世の中について「正義は何だ」「誰それの権利はどうだ」、あるいは「誰の責任だ」といった話を普通にします。確かにそういう話が必要なときもあるかもしれません。
    しかし、私たちはなぜダンマを学ぶのでしょうか。それは、根本は何かということを見つめ直すことだと思うのです。そして、その根本にあるものとは、「本当のところ、どうすれば幸せというものが可能になるのか」、あるいは「どうして、幸せでないようにしてしまうのか」という自覚、問いかけではないでしょうか。
    質問をされた方は、「帰り道、歩く瞑想をしましたが効きませんでした」とのこと。なるほど、そういう時もあります。ただ、これは継続する学びであるということを言っておきたいと思います。
    この時も、今も、これからも、業の法則ということを、くりかえし、くりかえし、正しく吟味して、ものの見方をそこに持っていく。あの人とか、この人とか、私とか、そういった比較や対立の世界の話ではなく、この業の世界を理解するとは、一人一人がどう生きていくか、この一瞬にどうあるか、それをどう大切にできるかという話です。そのように見ていく習慣をつくる。これは、あらためて正しい習慣を育てるという学び、修行です。

    私たちはカンマ(業)の法則はとりあえず話としては理解できても、日常を生きる中で忘れてしまいがちです。どうしても、今までずっと当たり前としていた捉え方や考え方に戻ってしまいます。それでも業の法則をくりかえし、よく吟味していってください。
    業の法則で正しく見ていくことに馴染んでいくと、いろいろな状況に対して、かつては「なぜ、この人は?」「どうして、あの人は?」となっていたのが、少しずつ「ああ、なるほど。本当に心のあり方こそ大切にしないと」と自覚するようになる。そうして、いろいろなことが淡々と経験されるようになってくればと願っています。


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協力:アチャン・ニャーナラトー師「法話と瞑想の会」スタッフ
 (第1回テキスト制作協力:大森せい子、森竹ひろこ)