【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】
皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日は「放っておくと排他的・差別的になってしまうのが人間?」という質問にスマナサーラ長老が答えます。
[Q]
人間というのは、どうして排他的・差別的になるのでしょうか?
[A]
■排他・差別は人間の本能
人間というのは、どうしても排他的になっていくものです。私たちは勝手に人間が偉いと思っているだけで、生き物の一種に過ぎません。ただ生きていると、自分のことしか知らないので自然と排他的になっていきます。特に世界の宗教は、全て排他的に成り立っているのです。宗教は人間の獣性(感情・煩悩)に訴えています。人間の獣性を煽ることをしないのはブッダだけです。人間の持っている獣性に訴えかけると、結構人気が出るのです。巨大な組織にもなります。
ですから、私たち一人ひとりが「人間は排他的・差別的になる」という本能をよくよく知って、それを乗り越えなくてはいけないのです。本能という獣が出てくるたびに、その都度こころを戒めて頑張らなくてはいけません。その時でも、上手くいったりいかなかったりします。そう簡単に希望通り・思った通りにはいきません。本能を上手く抑えることができれば安穏があり、抑えることができなければ安穏が無い、ということを経験して進んでいけばいいのです。
■本能に勝って心の安らぎを体験する
仏道に「負け」はありません。いつでも「勝利」だけがあります。例えば排他的にならないと頑張っても、ついつい感情が出てきたとします。それでも別にいいのです。自分が排他的になってどんな結果になったかというと、結果は気持ち悪いことになる。落ち着きがなくなるのです。結果からそれを学ぶのです。排他的になったら心が苦しみを感じる。排他的にならないということに成功したならば、穏やかさを感じるのです。
他の宗教と違って仏教では「これは悪だから絶対にやめなさい」とは言いません。悪を犯してしまったらそこから真理を発見するのです。因果法則を発見してみるという意味です。仏教には、固定した悪人善人という区別はありません。人間は行為によって変わるのです。誰だって不完全なのに、なぜ完璧を要求するのでしょうか? 成功からも学ぶことがあれば、失敗や間違いから学ぶこともあります。そのようにどちらからも学んで自分の人格を完成させていく。涅槃・解脱を別な単語に入れ替えるならば、「人格の完成」になります。人格の完成を目指しなさいという言葉自体が、人間は不完全だということを指しているのです。不完全だからこそ生命は輪廻転生しているのです。ですから世の中も間違いだらけです。それはそのまま冷静に理解してください。
■「世直し」衝動を抑えて理性を使う
「間違いだらけの世の中を私が直してやる」と思ったら、その人はあり得ない希望を持ったことになります。そう考えてしまうのは、無知があまりにもひどいからです。そうではなく「世の中はそんなものである」と理解して忍耐を実践し、排他的にならないよう精進しなくてはいけません。私がよく使うフレーズは「今日は、昨日よりマシな人間になろう」です。比較するのは昨日の自分です。そうするとすごく楽に感じるのです。あまり大げさに比較してはいけません。昨日ぐらいならどのように生きていたのか記憶もありますし、今日は昨日に比べて少しだけマシになればいいのです。一日分だけ人格の完成まで進むことができます。
そのようにすごく丁寧に優しく実践しなくてはいけません。優しくというのは怠けるということではなく「理性でものごとを観て現実的・有効的に」という意味です。実践できなければ意味がありませんからね。例えば「宿題をやりたくない、イヤだ」とごねる子供を理性で観てみると、その気持ちは当たり前だとわかります。自分の子供だけが変人ということではありません。問題はそれだけのことなのです。「お母さん(お父さん)も同じですよ。今日はご飯を作りたくないなという気持ちになります。しかもしょっちゅうね。でも「やりたくない気持ちに負けるのは良くないね」と諭せばいいのです。子供が宿題をやりたくないと言ったら、理性でそのように教えてあげればいいのです。「もし、お母さん(お父さん)が今日はご飯を作りたくないと思って、ご飯が無かったら困るでしょう? お母さん(お父さん)はやりたくないという気持ちに勝っていますよ。君も頑張ってみたら? ほら、宿題にとりかかって」という感じに理性で教えてあげる。理性が無いとすぐに善悪判断が入って、無駄な説教をするはめになります。感情だけで説教をしたって誰も聞いてくれませんからね。
■人間が排他的・差別的になる仕組み
先ほどは「本能」という言葉でまとめましたが、人間は誰もが排他的・差別的になる仕組みになっています。眼耳鼻舌身に色声香味触という情報が触れる。眼に美しい風景は映りません。耳に快適な音楽は聴こえません。五根から入るデータを意根のなかで合成して、〝知る世界〟を作るのです。耳に触れる単純な音の振動を、意根の中で快適な音楽として現象化するのです。このように、一人ひとりが自分固有の〝知る世界〟を作っています。それが他人の知る世界と似ているか似ていないかを確かめる方法はありません。というより、確かめてみようという努力すらしないのです。その代わりに「自分が知る世界は正しい世界である」と決めつけます。自分が作った世界を他人に侵害されることは大嫌いで、そのような人々は敵とみなすのです。自分の世界に賛成してくれる人々のことは仲間だと認識します。敵も味方も自分の主観の世界の判断です。人と世界との関りは、必ず自分の主観にもとづく判断に依ります。それが排他的・差別的な人間を作るのです。「あの人は排他的だ」「あの人は差別的だ」と私が言う場合は、それさえも自分の主観の判断なのです。
■出典 それならブッダにきいてみよう: 人間関係編1 | アルボムッレ・スマナサーラ | 仏教 | Kindleストア | Amazon