アルボムッレ・スマナサーラ

【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日は「慈悲を向ける具体的な方法」についてです。

[Q]

    「慈悲の瞑想」を実践する場合は、自分が認識できない生命にも慈悲を向けるべきなのでしょうか?    そうだとすれば、どのように慈悲を向ければいいのでしょうか?

[A]

■偽りのない慈悲を育てること

    すべての生命を認識することは不可能です。私たちに認識できるのは、地球にいる肉体を持つ生命のみです。それだって、認識しているか怪しいものです。私たちの認識には当然リミットがかかっているから、アリ一匹、ハチ一匹は認識できても、巣穴や巣箱にいるすべてのアリやハチは認識できません。「生きとし生けるものが把握しきれない」ということで不安になって、サマーディに達しない修行者は指導者がアドバイスして、瞑想対象を決まった認識の範囲に限ってもらいます。それでサマーディを強化するのです。日常生活の中で慈悲の瞑想をやる場合は、サマーディよりも人格向上を目指します。その場合は、修行者のように対象を区切らず、普通に念じればいいのです。いちいち生命を数えなくてもいいのです。一切衆生どころか、親しい生命だって数えられないものでしょう。一応ざっくりと「親しい生命が幸せでありますように」と念じるのです。厳密に数えると頭が混乱します。大切なのは「親しい生命が幸せになって欲しい」という自分の気持ちをはっきりさせることです。「自分はこの気持ちで生きています、慈悲の気持ちに偽りはありません」と確認する。気持ちに偽りがなければ、それでOKです。生命の数は数えなくてもいいのです。

■生命は無数無限にいる

    親しい生命も数えられない。ましてや、生きとし生けるものはまったく把握できない。それで心がガタガタになって、無重力状態で流されるような感じになる。これはよくない兆候です。ちゃんと心を制御しないと糸が切れたような状態になるので、そこでまた自分の気持ちに素直になるようにするのです。「生命は誰であろうと慈しみます。自分の気持ちには偽りがないです」と。そうすると、世界にどれくらい生命がいるのかという疑問が消えるのです。生命は無数無限にいるとお釈迦様は説かれています。ということは認識できないのです。一切衆生への慈悲を育てる場合は、客観的な対象を確認するのは無理です。慈悲は自分の心の中で管理するものなのです。
    突然、宇宙から異星人が来たとしましょう。アメリカ映画の影響で殺意を抱くかもしれません。しかし慈しみを実践した人は、「未だかつて見たことがない生命がいます。それが生命ならば幸せでありますように。幸福でありますように」と、そこで慈しみが働いてくれます。この喩えを出したのは皆さんには妄想しかできないからですけど。瞑想する時は、決して妄想する必要はありませんよ。

■慈悲の準備さえできていれば心配いらない

    慈悲の瞑想をする人は、どんな生命に出会っても慈しみの準備ができています。自分の気持ちに正直に、自分の気持ちに偽りがありません、というところで瞑想が進んでいくのです。どれくらい生命がいるのかということは考えてはいけない。生命にはリミットがありません。無限無量です。次元的にも、私たちの次元だけが生命では無いのです。ですから、自分の気持ちで慈悲の準備ができていればいいのです。次元の違う生命について考えても、いろいろな妄想が入ってわけがわからなくなる。どうでもいいのです、そんなものは。天界や餓鬼だけではなくて、畜生だって、全部わかるわけではないのです。でも、誰が出て来ても、こちらは慈しみを与える準備だけはできているようにする。いきなり餓鬼が出て来ても、神が出て来ても、混乱したり怯えたりせず、「こんにちは。お元気ですか?」という気持ちでいられます。それはすごい気分でしょう。混乱して精神病に陥ったり、「我こそは神に出会ったぞ」と、いばって詐欺師になったりすることはない。どちらも病気ですからね。
    出会った生命が自分に危害を与えるような怖い生命だとしても、「こんにちは」という態度をとれば、相手も危害を加えられないのです。自分もいつでも安全です。ですから、知り得る生命、知り得ない生命ということについて困る必要はありません。



■出典      『それならブッダにきいてみよう:瞑想実践編2』

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