(社会学者/東京工業大学名誉教授)


橋爪大三郎


幸福を支える仕組み


 幸福は、霞か蜃気楼のように逃げていく。手にしたと思うとすり抜ける。追いかけてもつかまらない。

 幸福が確かなかたちをとるのは、過ぎ去った場合だ。あのころは幸せだったなあ。過去は揺るがない。病気や怪我をして、それまでがどんなに恵まれていたとやっとわかる。大切なひとを亡くして、どんなにかけがえがなかったかを思い知る。

 誰でも子どものころは、幸福だった。誰かがあなたのために、生活の条件を整えてくれていた。コストや犠牲も払ったろうが、あなたには気づかせなかった。安心して食べて、遊び回った。そんな時代が過ぎても、幸福の原点のように記憶にしみついている。

 誰でも幸福に生きる権利がある。幸福に暮らしたいと思っている。それは人間として、当たり前のことだとみんな思っている。

 では、幸福とは何ですか。そう聞かれると、戸惑う。本人でない誰かが、キミは幸福だとかキミは幸福じゃないとか、決めたらおかしい。ならば本人が、決めればいいのか。本人に聞くと、答えは、幸福かどうかよくわかりません、だったりする。不幸せは、痛みや苦しみの実感がある。幸せのほうは、はっきりそれとわかる実感がない。

 でもあえて言おう。それは、幸福なのです、たぶん。そのことに感謝して、日々を送るのが正しい。自分は幸福である、と決めなさい。そう決めて、世の中をみると、違った景色がみえてくるかもしれない。

 しばらく前、勤務先を退職した。退職して思ったのは、軛(くびき)が外れたように、重荷が下りたこと。重荷を背負っている気はなかったのだが、勤めること自体が重荷だったのだ。