(臨床心理士、公認心理師、相模女子大学人間社会学部人間心理学科教授、行者)  

石川勇一  

ブッダの正法が日本に根づくために 

1.法の種が蒔かれた今

 
 近年、日本にブッダの正法の種が蒔かれました。これは日本の歴史上、特筆すべき大きな出来事です。
 
 このことは未だほとんどの日本人に知られておらず、理解されていないと思われますので、簡単にご説明したいと思います。日本にはこれまで幾度も種々の仏教の教えが伝わってきました。公式的には、6世紀に朝鮮半島から仏教が伝来し、土着の神道との習合など紆余曲折を経て日本に仏教が広がったとされています。西暦604年には早くも聖徳太子が制定した十七条憲法に「篤く三宝を敬へ。三宝とは仏・法・僧なり」(第二条)と記され、国の根幹に仏教が据えられました。日本仏教は北伝の大乗仏教ですが、その根拠となる大乗経典群は、ブッダが入滅されてから少なくとも300年程度経過した後、およそ1400年間に渡って創作されたと考えられています。
 
 大乗経典には、如是我聞(このように私は仏から聞いた)という書き出しではじまる経も多くありますが、実際にはブッダから直接聴いた話ではなく、後代の多様な思想をブッダが語ったことにした形式的な記述に過ぎません。教えの内容は、ブッダが実際に語った教えも踏襲されていますので、ブッダがたびたび説かれた「無常」「無我」「布施」などの重要な言葉は、意味は深く理解できていないとしても日本人であれば誰でも聞いたことがあるでしょう。しかし、長大な時空間を経た伝播のゆえに、大乗仏教の教えは縦横無尽に変節し、なかにはブッダの教えとは正反対なものも少なくないため、「大乗非仏説」との指摘もあります。
 
 一方、ブッダが実際に語った内容にもっとも近いと考えられている原始仏典(パーリ聖典)が日本に本格的に入ってきたのは明治期以降です。律蔵、経蔵、論蔵の三蔵の翻訳を高楠順次郎らが1941年に成し遂げましたが(全65巻70冊)、当時は国家神道が強制されていたという時代背景もあり、原始仏典はごく一部の人にしか影響力をもちませんでした。近年あらためて原始仏典の現代日本語訳が複数のルートで行われ、現在も随時発刊され続けています。経典の伝来・翻訳に加えて、初期仏教にもっとも近い教団と考えられている上座部仏教の比丘や指導者が、近年では頻繁に来日して法を説き、直接指導を行う機会が増えてきました。あるいはより積極的に、日本人が自らミャンマー、タイ、スリランカの仏教三国に渡って出家修行するケースも現れ、ブッダが説いた法を深く理解する日本人がかつてない規模で現れ始めているのです。
 
 
 つまり、大乗仏教が広がっていた日本に、日本の歴史上はじめて、ブッダのオリジナルの教えを普通の日本語で読むことができ、望むならばブッダ直伝と考えられる修行法を実践できる環境が生まれはじめたところなのです。かつて、ブッダの教えを求めて多くの日本の僧侶が命を懸けて海を渡りましたが、残念ながら彼らは純粋なブッダの教えを得ることはできませんでした。ところが今日では、自室で端末をクリックして経典を注文しさえすれば、すぐに誰でもブッダの真の教えに触れられるようになったのです。以上が、「近年、日本にブッダの正法の種が蒔かれ」たということの概略です。
 
 

2.特筆すべき大きな出来事

 
 ではそれがなぜ「日本の歴史上、特筆すべき大きな出来事」なのでしょうか。それは、ブッダの法(ダンマ)を正しく理解し、熟考し、実際に修行に励まないと分からないことです。ひと言で言うならば、ブッダの正法は、命あるものの苦しみを根本から断つことのできる唯一の良薬だからです。
 
 世の中によい教えや修行法は数多くありますが、いずれも対症療法に過ぎません。苦しみの原因を根絶しない限り、生命の苦しみの果実は永遠に実を結び続けるからです。これは宇宙の法則ですから人間はどうすることもできませんし、神々でさえ介入することができないことなのです。ブッダの教えは、苦しみの原因を根絶する具体的な教えです。「神にすがればよい」「呪文を唱えればよい」「儀式に参加すればよい」「ただ座ればよい」「サマーディや非二元を体験すればよい」などの教えとは異なります。ブッダの教えは単なる哲学、学問、技芸、技術でもありません。原始仏典をじっくり読むと分かるのですが、ブッダが伝えた修行法は、苦しみの滅尽、すなわち完全な解脱に向かうための具体的で完成された体系的な方法です。法をよく理解し、熟考を重ねた上で、指示通りに真剣に修行すれば、自ら結果を確かめることができるものです。そうして得られた理解に基づく澄み渡った確信こそ、ブッダのいう信(saddhā)なのです。
 
 
 ブッダの教えのなかには、リラクセーションや願望実現を目的とした瞑想法や治療を目的としたマインドフルネス心理療法のような、解脱に役立たない修行法はありません。さらに、解脱に資するのことのない質問には敢えて答えず、解脱に役立つことだけを説かれました。ブッダの教えの目的は、個々人の欲求を満たす世俗的な幸福ではなく、一時的な慰めを与えることでもなく、根拠のない夢や希望を与えることでもなく、哲学理論を構築することでもなく、信者を増やして利益を上げることでもなく、超能力を身につけることでもなく、死後に天界に転生することでもありません。そのような欲求や根拠のない見解に拘束された無智で惨めな在り方から自由になることを目的とする、出世間の教えなのです。出世間の教えの要諦は、こころを完全に清らかにするということです。こころが清らかになり、悪行為を恐れて避けるようになり、法と戒に従って正しく生きるならば、世俗的な幸福は増しますが、それは目的ではなく単なる副産物であり、通過点に過ぎません。
 
 
 このように、ブッダの教えは苦しみの原因を根本から滅し、実際に揺るぎない平安を得ることに向けられた実践的な体系です。これに比肩するものはありません。日本のこれまでの精神的・霊的伝統のなかにはなかった無上の法なのです。心理学やスピリチュアリティ研究など、近代的な研究や実践の中にもブッダの法に相当するものはありません。ブッダの説いた法は、時代や文化によって変化することのない普遍的なものであり、多くは修行によって自ら確認することができるものです。この法はブッダの思想ではなく、ブッダが発見した宇宙の真理です。そのため、仏教徒だけに通用するものではなく、あらゆる生命が拠り所にできる普遍的な法則なのです。
 
 インドで説かれてからおよそ2500年の歳月を経てはじめて本格的に日本にもたらされたこの最勝の法が、もしも日本に根づいたらどうなるでしょうか? 一定数の人々が法を深く理解し、法に基づいた生き方を実践するようになれば、日本人全体の精神性・霊性に静かに深く確実に善い影響をもたらすことが期待できるのです。
 
 それゆえに、この最勝の法が2500年の時を経て近年の日本に本格的にもたらされていることは、「日本の歴史上、特筆すべき大きな出来事」に違いないのです。 

 

3.正法が日本にもたらすもの

 
 今日の我が国では、利益、称賛、名誉、楽(快楽)という世俗的な価値を求めて生きる人が多くなりました。多くの人、集団、組織、情報が金銭欲、権力欲、承認欲求、快楽への欲に汚染されてしまい、どれも信頼できなくなっています。嘘や偽りに満ちた社会では、リテラシーを磨いて裏を読み取る能力がないと情弱と呼ばれ、競争に勝ち残れないのです。このようなフェイクに満ちた疑心暗鬼の社会では、純粋な善行為や、正しい生き方が見いだしにくくなり、世俗的価値観に埋没してしまい、普遍的な真理(法)に関心すらもたない人が圧倒的マジョリティーです。物質的な貧困も大きな苦しみですが、このような精神的な貧困はさらに深刻です。この深刻な病への処方箋は誰もが示せないでいます。しかし、もしもブッダの正法を学ぶ人が増えれば、このような世俗的価値観こそが苦しみの原因であることに気づく人が増えることでしょう。そしてその根本的な解決方法にも目が向けられるに違いありません。
 
 仏教学者の鈴木大拙博士は、太平洋戦争の只中に日本が敗戦することを察知し、戦後の日本人の精神性が崩壊することを憂いて、そのような日本人の心を支えるために、昭和19年に『日本的霊性』という隠語のような書物を著しました。しかし実際には、大拙博士が恐れたとおりの精神的崩壊が今や実現してしまいました。一例を挙げれば、国民のおよそ32人に1人が1年の間に精神疾患のために病院で治療を受けるようになり(厚生労働省患者調査、2014)、自殺率もワースト7位(OECD、2015)で長年ランキング上位の常連国になっています。政治家、官僚、大企業の不正や汚職は日常茶飯事になりました。利権以上の価値を知らない人々は、危険な原発やコロナ禍も欲に目がくらんで止めることができません。このような惨状は、貪欲に基づく資本主義文明や不毛な競争社会の結果といっても間違いではないでしょう。
 
 
 しかし、もしも戒律を守る比丘たちの集うサンガが日本できたならば、私たちに新しい希望をもたらすことになります。競争や生産性への期待から自由になり、戒律によって自らを防護し、修行に精進する清らかで崇高で有意義な生き方が実際にあるということに、比丘たちの姿を見て理解する人が増えるでしょう。サンガができるということは、今の社会にはない正しい生き方のモデルが身をもって提示されるということなのです。心の中で世間に絶望し、生きる意味を見失っている人であっても、清らかな生活を送る比丘に実際に接することによって、自分も出家して、彼らのように清らかになりたい、真理を悟りたい、苦しみを根絶したいという人々が一定数現れるでしょう。本物のサンガができたならば、日本で出家修行することができるようになります。その意義は計り知れません。仏法は単なる学問や哲学ではなく、正しい修行の実践によって真に理解され、体得されるものだからです。自分では修行ができない人でも、サンガに布施をすることによってこころが清まり、大きな徳を積むことができるでしょう。まさにサンガは世の福田(ふくでん)です。ブッダの正法が日本国に根づくならば、大拙博士が期待した以上の、最上の日本的霊性を形成することに大きく貢献するに違いありません。
 
 さらに大きな視点に立てば、法とサンガが根づいた国になれば、徳のある有情や、悟りの流れに入った聖者が日本に転生するようになり、ますます日本の霊性が高まることが期待できるのです。日本で生まれ育った私は、そのような心の豊かな国になってほしいと強く願っています。
 
 

4.取り組むべき課題

 
 日本に蒔かれた正法の種が芽を出し、花を咲かせ、実を結び、根づくのか、あるいは滅びてしまうか、今、歴史的な分岐点に立っています。よい実を結ばせるためには、私たちは何をしたらよいでしょうか。これは簡単ではない課題です。しかし、基本はブッタのことばに忠実にしたがうことが重要だと思います。ブッダは入滅が近づいたときに、
 
 
私がそなたたちのために説示し制定した法(dhamma)と律(vinaya)が、私亡き後、そなたたちの師なのです。
 
片山一良訳「大般涅槃経」
 
 
と比丘たちに語りました。つまり、もっとも鍵になるのは法と律なのです。
 
 
(1)法(dhamma)について

正しい法は仏教の命です。法の翻訳、研究、教育の充実は必須の課題です。タイではナク・タムと呼ばれる教理試験がありますが、このような制度も正しい法の知的普及のためには有効です。

日本は大乗仏教が広がった国であり、大乗経典に基づく宗派がたくさんあります。現在、日本には157の仏教宗派があり、77,206カ寺の寺院があり、345,934人の僧侶がいます(文化庁『宗教年鑑平成二十九年度版』)。これは膨大で貴重な文化的資源です。大乗仏教に携わる方々も、原始仏典に記されたブッダの教えと虚心に向き合い、法とはなにかをあらためて探究するならば、大いなる利益があると思います。一方で、2000年前にイエスが現れたとき、ユダヤの律法学者や信仰の篤いファリサイ派の人々の一部は、新しいイエスの教えを理解できずに、イエスを異端者として十字架につけることに加担してしまいました。ブッダのオリジナルに近い教えが新たにもたらされた今、この過ちを繰り返さないよう、ブッダの教えである仏教とはなにか、原点に立ち戻って理性的に検討する必要があると思います。


我が国では大乗仏教と初期仏教の対話は避けて通れない課題であると思いますが、一方で、大乗仏教と上座部仏教の安易な習合などはしてはいけないと思います。ブッダの法は、修正すべきことや付け加えるべきことはありません。解脱のための知識はすべて語られていて、完成しているのです。完成された正法に対して、完全な悟りを開いていない人(有学や凡夫)が、勝手に教えを付け加えたり改変することは、大変な悪業になる危険性があると思います。文化や伝統は大切なものですが、生命を解脱に導く真理より優先されるべきものではありません。変えてもよいのは、法ではなく、その運用方法だけです。


(2)律(vinaya)について
 
我が国では上座部仏教のことをかつては小乗仏教と呼んでいましたが、これは事実誤認に基づく侮蔑ではないかと思います。私はミャンマーやタイの森林僧院で短期出家修行をさせていただいた経験がありますが、上座部の比丘やサンガは市民から大変信頼され、心から尊敬されていることを日々目の当たりにしていました。比丘が村に托鉢に行けば、市民はすぐに履き物を脱いで喜んで布施をするので、すぐに鉢は一杯になってしまいます。
 
道を歩いていると走っていた車がハザードランプをつけて路肩に停車し、裸足でお布施をしてくれる方も珍しくありません。比丘が法話をすれば熱心に耳を傾けます。ちなみに私が短期出家させていただいた両国の僧院は、どちらも墓もなく、葬式は行わず、檀家のリストさえありませんでしたが、ひたすら修行に励んでいるので、膨大な布施が捧げられ、寺院は潤っていました。タイでは仏教書は布施によって出版され、施本として無料で配付されています。お金のない人でも、最高の知識である仏法は無料でいくらでも学べる社会が実現しているのです。日本円に換算して数百万、数千万円単位の布施も時々あるようなので、僧院には立派なお堂や仏像が並んでいました。もちろん比丘はお金には触れませんので、これらのことには無頓着であり、自らの修行に専念しています。
 
 
なぜ、上座部仏教の比丘はこれほど市民から尊敬され、信頼されているのでしょうか。数多くの要因があると思われますが、もっとも大きな要因は、第一にブッダの正法を護持し続けていること、第二は律を守っていることだと思います。律は、ほとんどの日本人には疎遠なものですが、上座部の比丘は227条のパーティモッカ(戒律の条文)を月に2回の布薩日に朗唱して、各自で律を遵守できたかどうかを確認します。律は罰則規定もあるので、たとえばパーラージカ(波羅夷)という4つの極重罪を犯した場合には、サンガから永久追放されるという厳しいものです。一方で心の中で懺悔すれば許される軽微なルールも数多くあります。227の律には含まれていない戒律も原始仏典(長部経典)には数多く書かれています。比丘たちは常にこれら戒律を意識して生活をしており、修行生活における戒律の役割はきわめて大きいのです。実際、戒定慧の三学が修行の柱でありステップですから、戒が無ければ正しい修行ははじまらないのです。
 
 
このように比丘たちは戒律を守り続けたからこそ、およそ2500年の長期間に渡って実のある修行をすることができ、さらには市民から信頼と尊敬を継続的に受け続けてきたのです。政治体制が移り変わっても飢饉や貧困に見舞われても、布施を受けて修行に専念することができたのは、本当に奇跡的なことです。
 
つまり、修行と律、布施と律はセットでなければならないのです。日本に本物のサンガができるならば、律の導入は欠かせないと思われます。
 
尚、ブッダは「瑣細な、小さな戒律箇条は、これを廃止してもよい」(「大般涅槃経」)と語っていますので、時代や文化に適合しなくなった細かな律は廃止してもよいのです。法は普遍的なので人間の事情で修正することはできませんが、律は修正が可能なのです。しかし、上座部仏教は初期の律は変えないと決議してしまったので、この教団では修正することができなくなり、比丘尼サンガが復興できなくなってしまうなど、問題が生じています。これは日本の問題ではありませんが、日本に律が導入されるならば、乗り越えなくてはならない課題があると思います。
 
 

5.おわりに

 
 最後に個人的なことですが、私は今回の人生で四半世紀以上に渡って求法の遍歴を重ね、さまざまな思想、学問を学び、修行も体験しました。しかし、ブッダの正法に出会い、はじめてすべての疑問が氷解し、心の底から安堵しました。遍歴があったからこそ、ブッダの法の無二の価値がよく理解できるのです。ミャンマーとタイで短期出家修行に励ませていただき、一段落の確かな理解を得ました。もう二度と遍歴することはありません。今後も、今回の生涯に限らず、解脱に至るまで、ブッダのダンマを拠り所として生活し、修行を続けます。このようなこよなき幸せを、法による歓喜を、ひとりでも多くの方に味わってもらいたいと心から願っています。そのためにできることをしていきたいと思うと同時に、サンガ新社がブッダの良薬を日本に広く行き渡らせ、根づかせてくれることを期待します。
 
 仏法に栄えあれ!
 
 
 
【文献】
 
石川勇一(2019)『心を救うことはできるのか:心理学・スピリチュアリティ・原始仏教からの探求』サンガ
 
片山一良訳(2004)『パーリ仏典 第2期3 長部(ディーガニカーヤ)大篇 Ⅰ』大蔵出版
 
鈴木大拙(1972)『日本的霊性』岩波書店