プラユキ・ナラテボー(タイ スカトー寺副住職)
浦崎雅代タイ仏教翻訳家)

第5回    フリートークタイム②師の言葉の真髄

「社会とともに生きるタイのお坊さん方から学ぶ」をテーマに、瞑想指導者として、社会開発僧として著名なルアンポー・カムキアン師の御遷化10年を記念して開催されたオンライン対談。その第5回。


●空腹や痛みはありのままを見るチャンス

質問者(チャット欄)    カムキアン師の言葉である「空腹にも痛みにもありがとう」と、「病や死を楽しむ」というのは、究極的な言葉だと感じました。この2つについてもう少し伺いたいと思いました。

プラユキ師    カムキアン師が常々おっしゃっていたのは、「気づいて観察することこそが、智慧を得るための最善の道だ」ということでした。その具体的な実践例として師は、日頃から「空腹感を観察するのもいい」と語っておられました。
    空腹感って、満腹のときにはあまり意識に上りません。けれども空腹であるときこそ、その感覚をありのままに見ていくことができます。痛みが生じたときに痛みを観察することも同じです。空腹や痛みは、私たちに「ありのままを見る」力、すなわち気づきの力を育てる機会を与えてくれる。だからこそ「空腹にも痛みにもありがとう」、ということだと思います。
    戒律もまた、同じ原理で働く面があります。もし何の決まりもなければ、食べたいときに食べ、飲みたいときに飲む、これでは心を観察する必要はあまり生じません。ところが「守るべきルール」があることで、心に小さな摩擦が起こります。すると「欲しい」「嫌だ」「やりたい」といった反応が立ち上がり、そうした自分の心と向き合わざるを得なくなる。つまり、日常の摩擦そのものが、気づきの訓練や心を観察する場になっていくのです。
    そして、ここから「病や死を楽しむ」という言葉にも、同じ道筋でつながっていきます。病気になると、痛みやだるさといった身体の苦が現れます。同時に、「早く治したい」「怖い」「嫌だ」といった心の反応も起こります。死に向かう局面では、恐れや不安、欲や執着がより強く現れることもあるでしょう。しかしカムキアン師の眼目は、「それらを起こらないようにする」ことではなく、「起こってくるものを、巻き込まれずに見ていく」ことにあります。
    痛みや不快感、恐れや不安は、確かにしんどいものです。けれども、そこに気づきを向け、丁寧に観察していくなら、それらは「敵」ではなくなります。むしろ無常・苦・無我を直に学ばせてくれる、これ以上にない教材になる。感覚も感情も、生じては変化し、やがて消えていく、そうした事実が、目の前で繰り返し確認されていくことにより、心についての理解が増していきます。そして、巻き込まれずに見ていると、心が次第に静まり、余計な抵抗や増幅が減っていく。すると「苦しい出来事そのもの」が、「気づきが深まる機会」へと質を変えていきます。
    この意味で、師が晩年に語っておられた「病を楽しむ(サヌック・プアイ)」という言葉は、「快楽として楽しむ」というより、「学びとして味わう」「観察の対象として引き受ける」というニュアンスに近いのだと思います。病や老い、死に向かう過程は、誰にとっても避け難い現実です。しかし避けられないものを嘆きや抵抗で増幅させるのではなく、気づきによって照らし、その瞬間瞬間を学びに変えていく。そこに、師の言う「楽しむ」の核心があるのではないでしょうか。
    したがって「空腹にも痛みにもありがとう」と「病や死を楽しむ」は、別々の言葉ではなく、一本の道でつながっています。苦や不快が現れるたびに、それを“気づきの稽古場”として引き受け、無常を見て、執着をほどいていく。その徹底が、究極の言葉として結晶したものが、この二つの表現なのだと思います。

浦崎    そうですね。翻訳していても「サヌック・プアイ」といった、普通は闘病生活、病と闘うみたいな言葉はどう訳そうかと今でもすごく迷います。、ニュアンスとしてはやっぱり今、プラユキさんおっしゃったように、体にいろいろな不都合が起こったりする自分の不快感を観ていく、あるいは観ることができる、まさにこの体というダンマですね。その法が目の前に現れている、変化が表れている、この法を観る機会であるということで楽しまれていた感じなのかなと思います。
    実はさっき流した動画も、病の部分がちょっとあってですね。1回目のがんからちょっと生還されたときにいろいろな方から質問を受けた一部があるんですけれども、そのときに、カムキアン師らしいなと思うエピソードがありました。最初に管を付けられて入院された時、在家の人がたくさんお見舞いに来て、在家の方はとても心配して、「もうどうなるのかしら、カムキアン師は」みたいに心配な顔をしていたので、「私は病気だけどまさに楽しんでるんだから帰りなさい」「私のことは心配ないから帰りなさい」と、言葉で言えなかったから紙で書いてあげたんだよと言っているんですね。そして「お寺にいたら、人がやってくるし、森林保護のことや、いろいろなことやらなくてはいけないから、1人の時間がなかったけども、今はもう1人の時間を楽しんでるんだから、病気になって入院しているけれど、もうみんな帰りなさい。私のことは心配しないで帰りなさいと言ったんだよ」と、本当に朗らかな感じでおっしゃっているんです。観ていると「ああ、そういう感じで病を受け止められていたんだな。本当に1人になれる、そしてこの体から学ぶ法の機会なんだと本気で思われていたんだ」という感じが伝わってくるすごい場面なので、もしよかったら後で見ていただけたらなと思います。

●高橋尚子とさくらももこにも似た精神が

プラユキ師    そういえば、カムキアン師の言葉に通じることを語っていた人物を、今ふと思い出しました。二人います。
    一人はシドニーオリンピックの女子マラソンで優勝した高橋尚子さんです。42.195キロ走り続けるのですから、マラソンは本当にきつい競技ですよね。ところが高橋さんは、試合前にある歌を自作し口ずさんでいたそうです。それを解説の増田明美さんが紹介していました。
「タンポポの    綿毛のように    ふわふわと    42キロの    旅に出る」という歌です。高橋さんは出走前から、あの苦しさを「楽しむ」気持ちでレースに臨み、緊張せずリラックスして走ることができ、結果として金メダルを獲得されたのだと思います。
    もう一つは、『ちびまる子ちゃん』の作者・さくらももこさんです。さくらさんには『そういうふうにできている』という本があります。私は、たまたま何かのご縁でこの本を手に入れて読み、僧房で思わず大笑いしてしまいました。さくらさんがご自身の妊娠から出産に至るまでの体験を、ユーモアを交えながら克明に綴っているのです。
    一般に、出産の過程には、痛みやつらさ、不安などが伴うものですが、さくらさんの身には人並み以上にさまざまなハプニングが起こります。それでも彼女は、そうした出来事を強い好奇心をもって、どこか客観的に描写していく。その様はまさに瞑想的で、またその筆致が巧みで、「サヌック・プアイ(病や痛みさえも楽しみつつ学びとして味わう)」という境地に通じるものを感じました。深く共感すると同時に、文章としても非常に面白く読み進められます。
    出産に際してはさまざまなことが起こり得るけれど、必要以上に怖がらなくてもよいのかもしれない。場合によっては、そこに“味わい”や“楽しさ”さえ見出せるかもしれない。そんなイメージを持てるようになるので、これから出産を控えている方には、ぜひ手に取っていただきたい一冊です。
    そういえば私も、著書の「『気づきの瞑想』を生きる」の中で、森の中で瞑想しているときの蚊に刺された話を、少し面白おかしく書きました。たしかに刺されれば痒かったり痛かったりします。しかし、身体や心の反応を丁寧に観察していると、そのプロセス自体がどこか興味深く、ときに面白く感じられるものなのです。

●学び多い死へのスタンス

質問2(チャット欄)    カムキアン師の伝記をYouTubeで拝見し、深く感銘を受けました。カムキアン師が死について何かおっしゃったお言葉などがありましたら、教えていただけますでしょうか。

浦崎    ぜひ伝えたい言葉があります。今、私はウィリヤダンマ・アシュラムにいるのですが、カムキアン師がなくなる前からずっとおそばづきをされていたのがスティサート師とサンティポン師でして、よく亡くなる前のことなどをお話ししてくださるんです。本当に細かく説法の中で伝えてくださったりしてすごいなと思うのは、サヌックプアイ、症状が重くなったりして、いろいろ手助けを受けたりしておられるときに、ルアンポーがこういう言葉をおっしゃったんだ、と聞きました。「私はね、治りたいとは思わないよ。そして死にたいとも思わないよ」。この二つをおっしゃったと言うんですね。本当にすごいなというか、普通は、もちろん病気にもなりたくないし、死にたくもないんだけど、カムキアン師は「治りたいとも思わない。そして死にたいとも思わない」と。まさに法のごとくにといいますか、もちろん体の治せる部分は治す、それには関わるけれども、生きるということにも執着しない。かといって、投げやりになって死んだらいいんだ、みたいな感じではない。その二つの言葉を聞いたときに「うわあ、すごいな」と思いました。

プラユキ師    カムキアン師の晩年の説法の中で、私が聞いて深く感銘を受け「ああ……!」と思った言葉があります。それは、やはり「私が死ぬことじゃないよ」という一言でした。
    カムキアン師も、ご自身の死期が近いことはある程度感じ取っておられたのだと思います。しかし、生滅するのは「パンチャカンタ(pañcakkhandha:五蘊)」だと。五蘊がただ生じては滅しているだけだ、とわかっていたのでしょう。すでに「私である」「私のものである」といった同一化から解放され、身体や心への執着を超えていたからこそ、「ただ単に『私が死ぬ』ということではないんだよ、心配しないでね」と語られたのでしょう。
    そして「自分も特に心配していないよ」と、淡々と口にされたことが、今も非常に印象深く残っています。

司会森竹    弟子であるお2人から究極とも言える師の言葉を紹介いただき、しみじみと心に響きました。カムキアン師を偲ぶ10回忌の会にふさわしい言葉をありがとうございます。質問してくださった方々もありがとうございます。

●終わりに一言ずつ

司会森竹    最後にお2人に一言ずつお願いしてもよろしいでしょうか?    まず浦崎さん、お願いいたします。

浦崎    本当に貴重な機会をいただいてありがとうございます。タイの仏教についてのいろいろな情報が今、日本に伝わっていてとても嬉しい限りなんですが、やはりカムキアン師そしてプラユキさんも含め、本当に素敵なお坊さんたちをご紹介できて、そしてまた、こうした善友が日本にもいらっしゃるということを、私はタイの方にもお伝えいたしますので、またよろしくお願いいたします。ほんとに今日は貴重なお時間ありがとうございました。

プラユキ師    今日は、浦崎さんからこうして親しくお話を伺い、また私自身もお話ししながら、その内容を皆さんと分かち合うことができました。カムキアン師を偲びつつ、本当に良い時間を過ごすことができたなと、今、実感しております。
    浦崎さんは、今も毎日欠かさずカムキアン師やパイサーン師の説法をはじめ、多くの僧侶の法話を翻訳してnoteに投稿してくださっています。何よりもコツコツと継続されているのが、本当に素晴らしいと感じます。以前もブログを一日として途切れさせず、何年にもわたって書き続けておられました。私などはどうしてもムラがあって、ある時期はXの投稿でも文章の執筆でも、一挙にたくさん書いたりしても、ふと途絶えてしまうことがあります。その点、浦崎さんの「続ける力」には学ぶところが多いです。
    こうした積み重ねこそが大事で、瞑想もまた一日にして成るものではありません。ライフワークとして日々コツコツ続けることで、結果は確かに現れてきます。心が穏やかになり、明晰さが増し、心が温かくなって慈しみの心が自然と湧いてくる──そうした変化こそ、カムキアン師が伝えてくださった教えであり、私たち一人ひとり、実践を通して育てていくものだと思います。
    今日この場で分かち合ったような良い教え、そして皆さんが受け取ってくださった「これは大切だ」と感じる何かを、ぜひ周りの方々にもお伝えいただければと思います。自他の抜苦与楽は、自己中心でも自己犠牲でもなく、ともに幸せになっていく道です。苦しみから少しずつ解放される歩みを広げることは、仏教の枠を超えて、さまざまな社会問題に向き合う際にもきっと力になるでしょう。
    私たち一人ひとりが、できるところから実践していくなら、これから先も、より幸せに、より良い社会へと歩を進めていけるのではないか――今日はあらためて、そう感じさせていただいた時間でした。どうもありがとうございました。


2024年8月23日オンライン開催
構成:川松佳緒里



第4回    フリートークタイム①タイ仏教の実態やお寺について