アルボムッレ・スマナサーラ

【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日は「上から目線をやめたい」という相談にスマナサーラ長老が答えます。

[Q]

    日常生活や職場で、ついつい高慢な気持ちで他人に接してしまう自分に気づくことがあります。この高慢な心への対処法を教えて欲しいのです。
 
 
[A]



■心の楽しみに自我が割り込む

    高慢な態度をとってしまうのはいろいろ妄想しているからでしょう。妄想することを思考することだと勘違いしているのです。正しい思考では怒りや嫉妬・高慢・人を見下す気持ちは出てきません。純粋な理性――勉強して何かがわかったり、正しい・理性的な知識が身についたりすると気分がいいものです。妄想は最初のステージで止めて欲しいですね。そこから自我を張って、「オレはこんな高尚なことを考えている、この連中はこんなことも思い及ばないのか」と調子にのると心が汚れます。これは微妙なところで、中部経典の第一『一切煩悩経』でお釈迦様が明確に解説しているところです。
    新しい何かを発見して開発していくこと、それは心の楽しみ、脳の楽しみなのです。そこに自我が割り込むと、「オレはこんなことを発見したぞ。みんな認めろよ。もっと報酬をくれよ」という高慢が生まれ、いわば地雷を踏んだことになってしまいます。ろくでもない人間になってそこから一歩も成長しなくなるのです。理性も智慧も開発できなくなってしまいます。人間として終わりですね。微妙なところでブレーキをかけることが、お釈迦様のおっしゃっている“戒め”です。ビシビシ仕事して結果うまくいく。それが楽しいのです。適切なところでストップしておくと、明日も明後日もばんばん能力が上がります。調子に乗りすぎて周りを見ると、軽視する気持ちや慢心が出てきます、「なんだこいつらは」と。人を侮辱したり、軽視したり、見下したりする気持ちが出てきたら心の成長は終わりです。心に汚い放射性物質が入ったのだから、そこからは自己破壊するしかなくなります。

■「オレが」という地雷

「オレが」という自我が出た時点で地雷を踏んだことになります。地雷を踏んでいる間は大丈夫です。自我を張って、こちらが怒鳴りちらしている10分、15分は相手も黙っています。それでリラックスした瞬間、地雷から足を離した瞬間にドカンと破裂するのです。自分の高慢のツケが1万倍になって返ってくる。自分が破壊されてしまうのです。この危険に対して、簡単な対処方法は教えられません。仏教は科学なので、その都度自分を観察して、自分を戒めないといけません。「こらこら、高慢が出てきたぞ。トンデモない“心の放射性物質”が現れたぞ」と。その瞬間で、抑えておかないといけません。皆さんも人間の成長の過程を理解してください。

■学ぶことは楽しい

    学ぶことは楽しいのです。花の生け方でも、お茶の淹入れ方、味噌汁の作り方でも、できてくるとけっこう楽しいです。お菓子作りだって今時は男性も学んでいたりするでしょう?    それでケーキが作れるようになるととても楽しい。でも家に帰って家族に「お前はスイーツも作れないのか」と高慢を張った時点で人生は終わりです。ではどうすればいいか?    「あなたにも美味しいケーキを食べさせてあげますよ」と、自分の能力を楽しく分け与えるのです。そうすれば相手も楽しいし、自分の能力もさらに上がります。そこで止めておきましょう。そのまま続ければ明日も気持ち良く楽しい人生が続きます。
    楽しく生きていると、人生でぶつかるいろんな問題に耐える能力が付いてきます。高慢な人は耐える能力が無いのです。周りのことが気になって我慢できないというのは、自分がろくでもない人間だという証拠です。ちょっとばかり能力が劣る人間がいたからといって、なぜそれに耐えられないのでしょうか?    他人を非難し、叱り、裁くことで自分が偉いと思ってしまいますが、現実は逆。情けなくて、汚くて、品格ある人間として生きる資格が全くないゴミなのです。だからこそ凶暴な態度を取る。自分が弱いから他人の弱みに耐えられないのです。だからこそ、その汚い性格を直さないといけません。
    経験を深めていって、能力が上がると楽しいです。単語をひとつ憶えただけでも楽しい。他国語の短い挨拶を学んだだけでも気分が良くなります。私たちの脳が、心が、そうできているのです。何かを学び成長しなさいと。成長するたびに楽しいのです。勉強は大変だ、仕事は大変だ、料理は大変だと悩む人は道を間違えていますね。

■生き方の方向をちょっと変えてみる

    一輪のバラの花を思い浮かべてください。棘があるからといって必ずケガをするわけではないでしょう。正しい掴み方があるのです。棘は下向きだから上から下に触れば問題はありません。ケガをする人は掴む方向を間違っているだけです。お釈迦様も「ちょっと生き方の方向を変えてください」と説かれています。包丁だって刃を避けて柄をつかめば、怪我しないで自在に使えるでしょう。それが幸せへの一歩です。今の人間の生き方--苦しみ、悩み、精神的な病気、理由無き人殺し……全く間違っています。ちょっとその方向を変えるだけ、逆にするだけ。大変なことではないのです。それがホンモノの科学ということです。
    正しい生き方が無かったら、何を発明してもゴミにしかなりません。まず生きていることを科学的に観て、それを治して、直して、全てはそれからでしょう。一番先にやるべきことを絶対にやらず、苦労ばかりしているのです。仏教ではそれを「無知の循環、無明の循環」と教えています。
    このようにちょっとしたポイントから「いかに生きるべきか」ということが見えてくるのです。「仕事中、ちょっと高慢になってしまうんだよ。人に辛くあたってしまうんだよ」と。そこから普遍的な心の働きが見えてくるのです。幸福になりたいなら、その普遍的な心の働きに気づいて、生き方を変えないといけないのです。

■現実的な達成感を脳に与える

    山に登ると決めたら、いくら苦しくても頂上まで行きたいでしょう?    頂上についたら「やったぞ!」という気持ちが生まれるでしょう?    あれが喜びなのです。下山する時もその気持ちが残るのです。脳には喜びが必要です。脳は「やった!制覇したぞ、弱味に打ち克ったぞ」というデータが欲しいのです。それはインチキ・ごまかし・暗示ではできません。現実的な達成感を脳に・心に与えないといけないのです。
    そこでストップしなさい、とお釈迦様は言っています。それから「オレがやったぞ。お前らは何だ」と言った時点で地雷を踏んでいます。そこで成長はストップして自己破壊になるのです。生きる方向性を間違えないこと。先ほどの、一輪のバラの花を掴む例えで考えてみて下さい。「人生、うまく行っているみたい」と楽しむのはいいのです。そこで自我を割り込ませないように気をつけることです。
    職場でも自我が割り込むと「こいつらはまともに仕事ができないんだ」と高慢になって、同僚や部下に腹を立てることになります。でも、それでは管理職は務まりませんよ。自我を抑えて、つねに周りをチェックしないといけない立場なのですから。部下が仕事しやすいように環境を整えてあげて、常に気を配らなくてはいけません。自我を張って、人を貶してうまく行くはずがないのです。「この人にはどんな能力があって、どんな環境なら仕事ができるか」と考えて、それを整えてあげる。そうすると部下も楽しく仕事をしてくれるのです。

■ポイントをおさらい

    最後にポイントを繰り返します。何かを学ぶことは楽しいです。外国語の単語ひとつ憶えるのも楽しいのです。そこでストップして、楽しみだけを得るように気を付けて下さい。「オレ」という自我の気持ちで、自己破壊に陥ってしまわないように。


■出典       『それならブッダにきいてみよう:こころ編1」  

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