京都安養寺、アチャン•ニャーナラトー師の初期仏教を学ぶ会に参加することをいいことに、幼い頃から修験道に憧れていた私、ついに吉野金峰山寺を訪ねました。
昨年より、私は熊野や出羽三山の山伏に会いに行き、山に入り祈るようになり、そのときの集中した感覚や、祈りに身を委ね、山や滝と交わり結ばれた時の安心感を知りました。
東北の山伏さんと、金峰山寺や熊野の山伏さん。
それぞれに祈りも違うし、お山や滝との向き合い方も違う。法螺の音も、勤行も、それぞれ。そんな違いを味わいながら、私は、そこかしこにある命にありがとうといいたくなって、手を合わせたら涙が溢れてくるのです。
これは、慈しみの涙。
私はたくさんの命に守られて、また、たくさんの命をいただきながら、いまここにいます。
そう感じながら、朝6時半の勤行を終えて、桜咲く山を駆け下りて、京都へ。

午後は、京都安養寺でアチャン•ニャーナラトー師の初期仏教を学ぶ会。
「刀を抜いたら負け」というフレーズから、私たちが輪廻の輪に入るということは、刀を抜くということであると知りました。
勝負の世界、分断のある世界に入ること。
でも、抜かないぞと力めばフリーズして、固まるわけです。
なかなか難しいなぁ。
また、今回は、懺悔が大切であるというお話しもありました。
カトリックのミサも、まずは懺悔から始まります。懺悔し振り返り、許され、神と一致し、私たち世界にある人々と分かち合うことを、誓う。
一週間して、また、ミサで懺悔から…。
知らぬ間に、誰かを傷つけて犠牲にする自分を受け入れることは大切だなぁと感じました。
大乗仏教のお経のフレーズを、安養寺住職吉水さんが詳しくお話しくださり、より深く、懺悔の意味を知りました。
瞑想は、朝からハイテンションの私、桜ばかりが頭に浮かび、なかなか騒がしい。
アチャンに話すと「吉野の桜を観て、こころが動かなかったら、それこそちょっと問題。もっとみたかったなぁ、とか思い始めたら、注意かな。」とお答えくださり、ホッとしました。

帰りの新幹線で、アチャンの言葉をまた振り返り、刀を抜かないけれど、固まらず、さっさと交わしてすり抜けるためには、しっかり相手の刀を観察しておかないとダメなんだろうなぁ、と感じ、これからもしっかり瞑想していこうと思いました。