〔ナビゲーター〕
〔ゲスト〕
慶應義塾大学の前野隆司先生と多摩美術大学の安藤礼二先生が案内人となり、各宗派の若手のお坊さんをお呼びして、それぞれの宗派の歴史やそれぞれのお坊さんの考え方をざっくばらんかつカジュアルにお聞きする企画「お坊さん、教えて!」。第一回の「真言宗」では、早川智雄さん(福島県長宗寺)、松村妙仁さん(福島県壽徳寺)をゲストにお迎えしております。
(6)真言宗の修行とその後の生き方
■悟っているからこそ生き方が問われる
前野 真言宗では悟りという言葉は使わないのでしょうか? 自分の中にある仏に気づくという状態と悟りは同じなのかなと思ったんですけど。
早川 だと思いますね。悟るために修行をするのではなく、すでに悟った状態である。すでにその状態だから、そこから何をするかが問われているということです。
前野 性善説とニュアンスが似ていていますね。人間というのは素晴らしい、大日如来のようなものなのであるという究極の性善説からスタートする。であれば当然、立派な人にもなりたいし、親切な人にもなりたい、そのメカニズムなのだなと思いました。
実は私、ある本の中で、「人間万能仮説」という仮説を書いたんです。これはサイエンスとしては単なる仮説なんですけど、人間って我々が思っている以上にもっと万能なんじゃないか、と。みんななんかこう、自分を小さくして現代社会に生きるために殻をかぶっていますけど、それを外せば万能なんじゃないか、みんなすごいポテンシャルがあるんじゃないかと。その極限が真言宗ということなのですかね。
早川 そうですね。真言宗ではあまり否定はしないんです。どうあってもそれが人間である、世の中の理の一つであると認める。だけど、大日如来の状態に戻ってあらためて見つめて、自分はどうしていきたいのかということが問われる。大人の判断が求められるんです。常にどうありたいのか、どのような仏でありたいのかと自分自身に問い続けることを常に求められている、そういうものだと私は考えています。
■曼荼羅と阿字観瞑想
安藤 今の三密のお話、とても印象的でした。もう一つ空海が確立した真言宗の持つ大きな特色に曼荼羅があると思います。三密は曼荼羅のような芸術表現に密接に関係しているのではないかと私は思っているんですけれど、そのことについて、何かお聞かせいただけますでしょうか。
早川 真言宗は、実は言葉を尽くすよりも、体験が重要な宗派であると思います。我々は陀羅尼を唱えたり、それこそ仏になりきるためにさまざまな印を組んだりしていますが、さらに曼荼羅をじっくり眺めて、自分がそこで何を感じるかということと向き合ってみる。曼荼羅(阿字曼荼羅)の前で瞑想することを阿字観瞑想(あじかんめいそう)というのですけれども、そういった実際の行動によって何が自分の中で生まれるかという体験を通して成長していく。そいう過程を経ないと素晴らしさが伝わりずらい宗派であると私は思っています。曼荼羅の前で阿字観瞑想をする早川さん(写真提供=早川智雄)
言葉を用いてお話すると、実は本質的なものとどんどんずれていってしまうんです。言葉でいくら語っても、実際やらないと意味がない。ですから皆さんももし機会があれば曼荼羅の前に行ってみて、見て何を感じるのか、なぜ自分はそう感じるのか、そういうことと向き合う時間を持っていただけたら、私が語るよりも何十倍、何百倍も実りの多いものがそこに生まれるんじゃないかと思います。
松村 曼荼羅にはたくさんの仏様が描いてあります。すべてでひとつの仏様でもあり、一尊一尊も仏様です。私たちも大きな曼荼羅という宇宙の中にいます。互いに無限のつながりがあって、その中にいる。それは言葉ではわからないというか、言いようがない。それを曼荼羅で表現しています。だから早川さんが仰ったように体感していただくのが一番だと思います。
曼荼羅には仏様だけではなく、神様なども描かれています。京都の東寺などには、立体的な曼荼羅もあります。曼荼羅を見ていただくことで、真言宗の仏様の世界を体感していただくとよいのかなと思っております。
安藤 東寺には光り輝く如来たちがいる一方で、他方には真っ黒い明王たちがおりますよね。あのように強烈な不動明王のような存在も、曼荼羅を構成する重要な一つというふうに考えてよろいしいのでしょうか? 明王たちを見ると恐怖と同時に、強烈なパワーを感じます。曼荼羅の前に立つと、宇宙と一体化するという幸福と同時に、ある種の破壊に満ちた強烈な力を感じます。そのあたりについてお話を聞かせていただけるようなことがあれば、ぜひ。
早川 パワー自体には良いも悪いもない。だから、大日如来の現れの形がご不動様の形をとることもあれば、阿弥陀様の形をとることもある。すべての世界の形の現れなんです。どれも等しく仏なんだというところが、密教的な面白い部分です。自分が寄り添いたい仏は、状況によっても違っていたりするんですよね。さまざまな仏を観ることで、自分が仏であるということに対する親近感もわいてきます。
曼荼羅には本当にいろいろな仏様がいろいろな形でいらっしゃいます。でも誰一人として欠けることがあってはならない、すべてはそこにある必要があるというのが大前提です。見ていただくと、なぜこの人はこういう形でいるんだろうか、という疑問も含めて、世界の理、世界の不思議さを感じて楽しむことができるのではないかと思います。
前野 曼荼羅が出てくるのは真言宗だけなんですか? それともほかの宗派にも出てくるんですか?
早川 たぶん天台宗さんも密教なので出てくると思います。
前野 密教には出てくるのですね。
早川 我々が普段イメージしている曼荼羅は、実は日本でさらにダイナミックに変化しています。「これも曼荼羅と定義されるのか」みたいなものまで含まれるんですよね。普通の掛け軸みたいな、そういうような曼荼羅もあったりですね、日本のダイナミックさというのがそういうところにも見てとれると思います。
安藤 先ほど阿字観瞑想と仰いましたが、阿字観の「阿」というのは、サンスクリット語を構成する最初の言葉です。ですからいわゆる言葉の母であり(すべての子音の基本形はすべて「阿」とともに発音され、表記されます)、最も重要な語ですね。と同時に、アトピー皮膚炎の「ア」と同じで、否定の言葉でもあるわけです。ア・トポスはどこにもない場所、ユートピアの語源です。肯定と否定、始まりと終わりがそこに集約されています。阿字観瞑想というのは、そういった特別な言葉を観想する、つまり瞑想するというふうに考えてよろしいのでしょうか?
早川 阿字観瞑想はイメージを膨らませるタイプの瞑想です。掛け軸に「ア」という梵字があって、それから蝋燭の火があったりして、自分の中で大日如来と一体になっていく作業をしながら、宇宙の広がりを感じてまた戻ってくる。大日如来と私が同じ存在なんだ、ということを体感して戻ってくるという瞑想ですね。
真言宗ではさまざまなシンボルを見立てていくんですよね。仏様の形もそうですし、それを表すような梵字もそうですし、曼荼羅もそうです。自分が一番イメージしやすいもので入っていく。バラエティーが豊かすぎるので、逆にわかりづらいところがあるのですけども、何もないところでただただ座って自分と向き合うという座り方のスタイルではなく、感覚的にこれが仏様と同じなんだということがイメージできるアイテムを使いながら、イメージを膨らませて一体化していきます。阿字(写真提供=早川智雄)
松村 「ア」というのは大日如来を表した梵字ですので、それを観想するということは自分の中にいる大日如来を感じたり、大きな大日如来の中の自分を感じたりするということになります。護摩修行する松村さん(写真提供=松村妙仁)
安藤 字の中にも仏様がいるし、ものの中にも仏様がいる。同時に自分たちの中にも仏様がいて、そういったようなものがすべて通じ合っている。そう言ってしまうとやや単純化が過ぎてしまうかもしれませんが、字を一つイメージするだけでも、そういう世界に入れるというふうに理解してもよろしいのでしょうか?
早川 重々帝網(じゅうじゅうたいもう)という言葉があります。何一つ関係しないものはない、お互いさまざまに関連し合ってそれぞれを映し出しあっているという意味の言葉です。大日如来というのはすべての宇宙の根源ではありますけども、その現れがさまざまなところに現れている。それに気づくための修行が三密の修行であり、阿字観瞑想です。ただ、日常の中のさまざまなところで、大日如来の現れは常にありますので、そういう修行をしなくてもふと気づく人はいるのかもしれないなと私は思っています。
(つづく)
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2021年慶應SDMヒューマンラボ主催オンライン公開講座シリーズ「お坊さん、教えて!」より
2021年4月26日 オンラインで開催
構成:中田亜希
(5)密教とは何か(後編)(7)修行は続くよどこまでも