〔ナビゲーター〕

前野隆司安藤礼二


〔ゲスト〕

早川智雄

松村妙仁


慶應義塾大学の前野隆司先生と多摩美術大学の安藤礼二先生が案内人となり、各宗派の若手のお坊さんをお呼びして、それぞれの宗派の歴史やそれぞれのお坊さんの考え方をざっくばらんかつカジュアルにお聞きする企画「お坊さん、教えて!」。第一回の「真言宗」では、早川智雄さん(福島県長宗寺)、松村妙仁さん(福島県壽徳寺)をゲストにお迎えしております。

(5)密教とは何か(後編)

■自然・無機物も成仏できる

前野    チベットにも大乗仏教がありますよね。タイなどは上座部仏教ですが、仏性があるというのはチベットの大乗仏教にも上座部仏教にもなくて、日本の大乗仏教だけにあるものなのでしょうか?

早川    自然に仏性がないという話です。

前野    自然にはですね。あ、そっかそっか。

早川    基本的に感情があるものは学ぶことで悟れる。感情がないものは悟るチャンスがない。ですから、上座部仏教や胎蔵界がない宗派ではあまりそういう話は出てきません。昔の高僧が自然に思いを馳せて、仏性の範囲を広げていったというのは、とてもダイナミックな展開なんじゃないかなと思います。もし釈尊の言ったこと以外はまったく意味がない、と言ってしまったら、その瞬間から、そういうような発展は見込めなかったと思いますね。

前野    チベット仏教やブータンの仏教で、「生きとし生けるものが幸せでありますように」というときの「生きとし生けるもの」に植物までは入っていそうなイメージがあったのですが、じゃあウィルスはどうなんだ、という話もありますし、「生きとし生けるもの」と言っている限りは、やっぱり鉱物とか土とか空気は入ってないということになるんですかね。

早川    私が本を読んだ限りでは、チベット仏教の場合、胎蔵界はあまり重視していないので、おそらく感情を起こすようなある程度高等な生き物を前提にされているんじゃないかと思います。

前野    じゃあ植物は入らないということですかね。

早川    大分、そこにこだわりますね、前野先生(笑)。

前野    私、植物とか森が好きなんで(笑)。米粒にも神が宿るみたいな、神道的な考え方と日本の仏教は、もともと融合していた時期もあったわけですから関係しているのですかね。

早川    関係は何かしらあると思いますけどね、はい。

安藤    空海が生まれたのは774年、『古事記』が編纂されたのは712年、『日本書紀』は720年と、ほぼ同時代なんですよね(いずれも定説でもちろん異論もあります)。『日本書紀』の中には、神道的な「神がかり」や、さらには、聖徳太子が『法華経』と『勝鬘経(しょうまんぎょう)』の講話をしたというエピソードが載っています。『法華経』はまさに天台宗の基盤となった教えです。『勝鬘経』というのは勝鬘夫人(しょうまんぶにん)という女性が、まさに今日お話いただいたような「すべてに如来が宿っている」という如来蔵の思想を説いたものです。空海が生まれる前に、神仏習合はすでに形を整えていたと考えることも可能です。「神がかり」に代表される神道的、つまりはアミニズム的な感覚と、空海や最澄が確立することを目指した日本的な仏教、東方大乗仏教はきわめて近しいというか、そのように考えていくとわかりやすいように思います。すみません、また勝手なことを申しまして(笑)。

前野    世界を旅すると、砂漠やアメリカの西海岸は乾燥しているんですよね。それに対して日本は湿潤な気候ですから、1平方メートルの中にいる動植物や菌類の数がすごく多い。そういう点でも、動植物とかあらゆるものと共にいるという感覚を、神道でも仏教でも抱きやすかったんだろうなと思います。自分もそういうものの一部なんだというふうに感じますね。

安藤    空海は四国の険しい山々を経巡(へめぐ)っていきます。石鎚山、大滝岳、そして室戸岬に出ます。室戸岬は、いくつかのプレートがその先で衝突している場所なのです。つまり大海から大陸が生成してくる痕跡が残されているんですよ。あそこに立つと、目の前には海と空しかなくて、しかもその海と空の間から大地が隆起してきている。まさに自然の運動そのものを目にすることができます。無機物ですよね。地球の運動そのものが、大地をはじめ、あらゆる「もの」を生み出している。そうした世界の持つ運動性とそのまま一体化できる特権的な場所です。私、室戸岬が好きでこれまで2回数日にわたって滞在したことがあります。好きで2回というのは少ないんですけれど(笑)。無機物さえも、大地の運動さえも生命を持っていて、それと一体化できる。そういった感覚、体験がありました。空海がもたらした即身成仏の教えも、そういった感覚に近いのではないかと素人考えではありますが、思いました。

早川    三密(さんみつ)もそうですけど、真言宗は自分が仏と一心になって同化していく学び(まねび)の仏教だと思います。日本にはもともと自然からさまざまな力を得ているという考え方が昔からありました。空海も、唐に渡る前の修行期間に山伏と同じようなことをしたりして、自然に触れる自分の楽しさのようなものを『性霊集(しょうりょうしゅう)』という歌集にまとめています。自然との豊かな交流みたいなものはすでに素地としてあって、そこから深めていく中で、そういうものの重要性が確信に変わったのではないか、日本に生まれた人間が学びを深めていく中で、当然通らざるを得なかった結果なんじゃないかなと思いますね。
それは日本人とはなんぞや、という問題とも直結しているのではないかと私は思います。日本人から自然を抜いてしまうと日本人ではない感性になってしまうというか。そのあたりが安藤先生が仰っていることと重なっているのではないかと感じております。

■三密の修行

前野    先ほど仰った三密というのは何ですか?

早川    身口意(体・口・心)の3つのことです。「身密(しんみつ)」は身体活動、「口密(くみつ)」は言葉、「意密(いみつ)」は心、信心の部分です。いずれも日常活動の中で使っているものですが、自分が仏だとしたら、仏として自分はどのような態度を取るべきかと考える。たとえば身体活動であれば、なるべく笑顔を取り入れて、和顔施(わがんせ)で接する。仏であったならば、きっと優しい温かい笑顔をもって皆さんに接しますよね。言葉であれば、愛語、優しい言葉を使うようにする。意密に関しては、ありがたいという感謝の心であったり、相手に共感して慈悲を向けるというような心持ちを実践する。そういったことができると思います。どのような状況でも常に自分が仏とイコールなんだという心持ちを持って行動に活かしていく。それが無相の三密です。

松村    今は違う3密(密閉、密集、密接)のほうが聞き馴染みがありますけれども(笑)、もともとも三密の最終的な目標は即身成仏です。即身成仏というと亡くなった後のことのように思われがちですけど、そうではなく、この世でも仏様のように穏やかに過ごすことができる。自分の行動や言葉、心の動き次第で仏様にもなれるし、そうでもなくなってしまう。だから、三密のその修行を重ねていくことが大切である、そういう教えです。
    お坊さんが行う修行だけが三密ではなくて、普段の暮らしの中でも身口意の修行を重ねていくことで、仏様のように穏やかな生活、豊かな実りある毎日、well-beingな毎日を過ごすことができます。特に今のようなコロナの状況下で、三密はもっとも大切なことではないかと思いますので、ぜひ取り入れていただきたいなと思っています。

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本堂でおつとめをされる松村さん(写真提供=松村妙仁)
早川    三密を一般の方の日常に活かすとするならば、無相の三密ですね。三密には有相の三密と無相の三密があります。有相というのは宗教的な実践ですね、我々僧侶が実際お寺の中にこもって印を組んで陀羅尼を唱える、そういった実践です。そうではないのが無相の三密で、日常生活の中でも意識して取り入れることができると思います。

(つづく)

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2021年慶應SDMヒューマンラボ主催オンライン公開講座シリーズ「お坊さん、教えて!」より
2021年4月26日    オンラインで開催
構成:中田亜希

(4)密教とは何か(中編)(6)真言宗の修行とその後の生き方