【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】

 皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。


[Q]

 瞑想実践していて、体調を崩したり、人間関係が一時的に悪くなったりする体験が自分にはあります。瞑想実践を続ける過程で、つらい体験をするということはあるのでしょうか?

[A]

現状を確認することで心身は落ち着く


 そういうことはありません。苦しくなるのではなく楽になるはずです。修行が悪い結果を出すとは、法則としてもあり得ないことです。例えば身体の調子が悪くて、寝て休んだ方が良いのに仕事をしなくてはいけない、ということになったとしましょう。そういうことは、たまにありますね。そこで裏技として、瞑想実践が使えるのです。身体が上手くいかないという状況も確認しつつ、仕事も気づきを持って行ってみる。仕事はトラブルなく進むだろうと思います。

 なぜならば、瞑想しない人であるならば、調子が悪い・身体が苦しい・休みたい・それでも仕事をしなくてはいけない自分がかわいそう・失敗したらマズいなどなどのネガティブ妄想で仕事をするのです。結果は病気が悪化する、仕事も失敗する、周りの批判も受けるなどなどです。ですから、瞑想実践しながら(気づきを保つことです)仕事をする人が上手くいくのです。調子が悪かったにもかかわらず仕事が進んだので自信もつきます。


自我を張ることで心身は乱れる


 しかし、実際にはあなたは体調を崩したり、人間関係でトラブルが起きているということですね。その答えは簡単です。「オレは瞑想しているぞ」という気持ちがあるからなのです。謙虚になっていないのです。要するに、自我の錯覚を破るためにする瞑想を、自我の錯覚を育てよう・栄養を与えようということになっているということです。自我の錯覚を育ててしまうと、周りから攻撃を受けます。そこに気をつけてください。


自我の錯覚を破り、何者でもないことに気づいていく


 瞑想実践というのは、「自分は何者でもない」という境地に達するためにすることなのです。オレが何者かになりたければ、どうぞ頑張ってください。そうすると、とても酷い目に遭います。酷い目に遭ったとしても、社会が悪いというわけではありません。皆、自分の自我で忙しい。因果法則・システムとして、そういう結果にならざるを得ないのです。自我を張ると周りがその人を潰しにかかる。自我を張らない人は空気のように掴みどころがない。例えば椅子を壊すことはできますが、空気を壊すことはできません。

 私たちは自我を張ることで、周りの生命・自然界に潰される形になっていると考えてください。ですから、瞑想実践は自我の錯覚を破るため・自分が何者でもないと発見し謙虚になるためだと理解してください。「オレ様は瞑想している。お前らは瞑想していない」という気持ちが隠れてでもあったとしたら、当然上手くいきません。自我を張っていることになってしまっています。気をつけてください。



出典 『それならブッダにきいてみよう: 瞑想実践編3』