イギリスにあるテーラワーダ仏教僧院のアマラーワティー僧院に長年止住する日本人比丘のアチャン・ニャーナラトー師の法話会でされた法話から、参加者の質問に答えたお話を、採録いたします。掲載する質問は、実際に読み上げられたテキストをもとに、質問の内容を変えず、個人が特定されるような詳細は割愛するなど変更を加えています。
第3回 話を聞く時に心がけたいこと
【問い】
昨日、70歳になる友人から2年ぶりに電話がありました。複数の病気で入院しているとのことで、面会もできないようでした。孤独で苦しい、助けてほしいと、辛(つら)そうに話します。友人が厳しい人生を体験していたことは一度聞いたことはあるのですが、その時は全部受け入れているようにも話していました。子供さんは彼女がそこまで苦しんでいるとは知らないとも話していました。電話はこの次には詳しく話せると思うと言って切れました。
突然の「助けてほしい」という言葉に驚き、私はただ苦しそうな様子を感じて聞くことしかできませんでしたが、こういう窮地の話を傍らで聞くときに注意することがあればアドバイスいただけないでしょうか? よろしくお願いします。
【回答】
■辛い状況の人から話を聞く時
辛い時に、誰かに話を聞いてもらえるのは本当にありがたいですね。出家者である私たちも、しんどい時に、その思い、愚痴や泣きごとを聞いてもらえるのは本当にありがたいことです。そういう機会があるとないのとでは、たいへん差があると思います。
この方は「私はただ苦しそうな様子を感じて、聞くことしかできませんが」と書かれていますが、これができるのはすごいことです。ですから、ご友人は電話をかけてこられているのだと思います。
ご質問いただいた、聞く側はどうするのかという話ですが。
「私はここにいるから、いくらでも聞くよ」という構えがあれば、それは素晴らしいことですし、理想だと思います。ただ、現実には、また私自身の経験から言っても、実際の状況の中ではそれがなかなかできないかもしれません。身体がもたない、気持ちがついていかない、時には内容が聞くに堪えないということがあったりするのも事実です。ですから、理想論で自分を追い込まずに、限界があってもよいということを覚えておきたいです。その上で、「いくらでも聞くよ」という態度を、実際にそのように口にするかどうかは別問題としても、私たちの心のあり方として大切にしたいとは思います。
繰り返しておきます。限界があるというのも、当たり前にあっていい。理想あるいは完璧なあり方を作ってしまい、それがあるべき答えとしてとらわれてしまうと、「できない」という無力感、後悔、罪悪感へと続いていくストーリーが始まります。理想の答えとかベストの選択とかいうのは方向性を示すものとして役立てることのできるものではあっても、不幸にするためのものになってはいけないのですよね。ですから、限界もあるということを知っておくことは大切なことだと思います。
そして、場合によりますが、こちらが聞いていてダメな時は無理をしないで、間を置いて様子をみる。つまり可能であれば「また聞くよ」とか「また聞かせてね」といった形で、次の機会を残す。そういう間の置き方も大切だと思います。つまり、頑張り過ぎないということですね。
■話を聞く前に
それでは、具体的にはどうするのか。仮に私が同じような状況にあるとしたら、まず、話を聞く前に自分の心をチェックするように思います。普通であるか、ゆったりしているか、緊張しているか。あるいは、「できれば話したくないなあ」とか、ひょっとしたら「この人、実は苦手なんだけどな」とか……。
「聞かなくてはいけない」、「聞いてあげたい」といった建前があるかもしれませんが、あるいは本音とでもいうのでしょうか、念のため自分の心のありかを「どうなんだろうな?」と確認してあげる。時にはしんどい部分があるのも、ごく当たり前のような気がします。それにも気づいて認めてあげる。
そうした思いなどを無視したり抑圧して「聞かなくては」だけで進んでしまう。すると、「出会わなくては」と強く意識して、「あなたの話を聞きます」という形、ルールや役割という仮面を被って出会ってしまうことになるかもしれません。
電話を通しての時間ではあるのですが、これもまた、「一期一会」としてとらえることのできる出会いのはずです。一期一会という、一回限りの、開かれた出会いの場が、あるいは、無自覚のうちに構えにとらわれ、決め事に陥ってしまっているかもしれない。だから、まず最初に、ご自身の様子をチェックしてあげたらどうかな、と。
■「今、ここで」の中で話を聞く
そして、実際に話を聞かせていただくときは、やはりここ(胸を指す)に心を置き、ここから離れないようにしてみる。ただし、ここに固まるということではありません。
今、自分はどんな感じなんだろうか。辛いとか嬉しいとか、あるいは、ひょっとしたら疲れたとかいう感じがあるかもしれません。そうした今の自分のあり様に触れている、つながっていることを失わないでいたい。理屈で考えて「それはこういうことである、こうあるべきである」とか「聞かなくてはいけない」と頭だけで向かうということを避けたい。
まさしく、話を聞く時も「今、ここで」なんですよね。ある種の瞑想とも言えるでしょうか。瞑想という言葉はちょっと大袈裟に聞こえるかもしれませんが、「今、ここで」に安らぐ……。たとえばアチャン・チャー師が瞑想の時に、A Holiday of the Heart「心の休日」ということをおっしゃいました。心と喧嘩するのではなくて、「今、ここで」、「あるがまま」ということを、非常に上手な言葉でおっしゃっていると思います。
「何かを作らなくてはいけない」「こうしなくてはいけない」、そうした、いわば禅のストーリーで言われるところの〝瓦を磨いて鏡にしようとする〟かのごとく頑張る瞑想や修行ではなくて、A Holiday of the Heart。「今、ここで」に、「あるがまま」に、そのままに安らぐ。そうしたあり方に馴染んでいく。親しんでいく。この点をしっかりとお伝えしておきたい、そう思っています。
今、瞑想みたいなものですと言いましたが、誰かと話をするとか、まして苦しんでいる人に話を聞かせていただく時は、本当にそういう気持ちなんですね。心を胸に置くと言いましたが、もちろん頭も使いますよ。例えば、「これは、どういう意味なんだろう?」とか、「何が足りないのかな?」とか……でも頭だけになってしまうと、下手をすると分析することにとらわれてしまう、あるいは分析だけになる……。でも、心を胸におく、胸から離れない、胸をベースにする、つながりを保つという意味は、「今、ここで」というあり方です。
あるいは言い方を変えれば、安らぎということです。「こんな厳しい話をしているのに、ホリデー・オブ・ザ・ハートとはなんだ。こんな苦しみに対してホリデーなどあり得ない」などと受けとられてしまうかもしれませんが、もちろん、そういうことではありません。様々な経験に出会い、その難しさを支えるあり方としての、心の安らぎということです。
ここでの安らぎは、「うわーすごいな、私は幸せ!」というような経験ではありません。例えば、お寺で出会うような静けさ、安らぎのようなものと言えるでしょうか。あるいは、松原泰道先生(*1)が説いておられた、「ありがとう」「すみません」という、合掌の心と出会うところで見つかるものかもしれません。そういった安らぎの中で話を聞かせていただく。その人の言葉に出会う。
だからといって、「今から電話で話を聞くから、瞑想して聞くぞ」となってしまってはもちろん違うわけですが。心の柔らかさ、ゆっくりした感じ、安らいだ感じというのはベースとして気づいていたい、という意味です。それは、考えないということではないです。考えることは必要です。「今これを言ったらいけないな」とか、「これは大丈夫だろうか」とか……胸も感じるだろうし、頭も当然考えるわけです。考えることも必要なわけですが、頭ばかりだったらまずいというのは理解していただけるかと思います。
ですから、全体のバランスをとる。バランスって何だというと、「今、ここで」に安らぐ。その中で言葉が現れたり、考えが現れたり、感じが現れたりします。そして同時に、こうやって相手の言葉にも出会っている、そんな感じですね。
■基本は「待つ」
もう少し具体的なディテールを言うならば、今回のような場合は、基本的に私たちは聞く側ということがあります。「孤独で苦しい」とか、「助けてほしい」とか、電話の向こう側のお友達がいろんなことを言葉にするのを聞きます。場合によっては「聞く」に徹するかもしれません。あるいは「待つ」という感じもあるかもしれません。
話を聞いていると、何か言いたくてたまらなくなることもあります。「それは違うんじゃないですか」とか「そんなバカな」とかですね。でも、基本は「待つ」。
待つとはどういう感じかというと、たとえば、何か答えを出したい、何か言いたい、答えがあるだろう、答えを忘れない、というような声が、心の中で現れている。何か答えのようなものが思い浮かんだとか、答えを出さなくちゃいけない、みたいなことが起こっている。そんな中でも「待つ」。こうした思い、考え、ひょっとすると衝動に乗りかかって動かされてしまうのではなく、そこに止(とど)まる。自分自身のそういう動きを観る、観察する。そういう経験も含めた「待つ」です。
とりわけ、相手が自分に質問しているように聞こえたなら、「答えなくてはいけない」と思ってしまうかもしれません。「待つ」の反対は「焦る」ですよね。答えを焦る、みたいなこと、そういうことも普通に起こります。
あるいは、わかっていたらやらないはずですが、ひょっとすると「割り込む」というのがある。私もついやってしまうことがあります。話を聞いていて、たとえば自己肯定感の問題だなあと思ったら、実際に分析をし始めてその話をしてしまうところまでは行かないとしても、気がついたら、ここをこう頑張ったらいいのにと思って、調子に乗って「ポジティブであることはとっても大切」、「ありがとうをたくさん言おう」みたいなことを割り込んで言ってしまう。
■ルールはない
ただ、難しいところは、「答えを焦らないで、割り込むこともしないで、聞くに徹する」ことがルールになってしまい、自分がそのルールに縛られて固まると、これも一期一会にならないですね。ルールという仮面をつけて相手と会うことになってしまう。だから、そこは常に難しいですが、安らいだ形でオープン、そのままに、あるがままに出会う。そしてちょっと気をつけたいのは、割り込まないこと。相手が話すスペースをこちらが差し上げているようなスタンスです。
でも、「いや、それは違うよ」と言いたくなる時があるかもしれません。そういう時も、私たちはとにかく必ず黙っていなければならないのかといったら、それはわからないです。「本当におかしいな」、「これは、やっぱりまずいな」と思ったら、言わなくてはいけない時もあるかもしれません。でも、やはり言えないかもしれません。それはわかりません。
つまり、その時にある「あり方」、「あるがまま」。そして、その時に出てくるもの、現れてくるものは、そのままで尊いものと思います。その意味ではルールはないと言えるでしょうか。
聞く時は聞く側に徹する、ということ。相手が思いに出会い、それを表すためのスペースを差し出すみたいな関係です。そのことは間違いないし、このスペースを大切にしたいという思いはあります。
ただ、「こうしなくてはいけない」「こうでなければいけない」をたくさん持つと、それはそれで不自然であり、あるいは未消化になる。一生懸命に努めたけれど、何かおかしいという感じが後に残ることもあるでしょう。その原因を考えると、そこにあった、構えに囚(とら)われていた態度に気づいたりします。
■「今、ここで」「一期一会」という言葉を思い出す
実際にどうするかは、なかなか難しいとは思いますが、いくつか心に浮かんだ要素を並べてみました。瞑想という言葉は、あえて使っても使わなくてもいいのですが、「今、ここで」「一期一会」は、心に留めておくべき、よい言葉かもしれません。ご質問の場合にも、そのご友人の電話口からの様子、声、語られる言葉に出会う、受ける……、まさに、「今、ここで」「一期一会」として。あるいは、「今、ここで」「一期一会」という言葉を思い出すことで、出会い方、聞き方の、望ましいあり方に戻ることができるのではと思うのです。
*1 松原泰道(1907-2007):臨済宗の僧侶。臨済宗妙心寺派教学部長を務める。101歳で天寿を全うするまで、現代の「語り部」として仏の教えを現代の言葉に置き換えて、わかりやすく説き続けた。
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協力:アチャン・ニャーナラトー師「法話と瞑想の会」スタッフ
(第3回テキスト制作協力:大森せい子、森竹ひろこ)
アチャン・ニャーナラトー師「法話と瞑想の会」は毎月オンラインで開催されています。詳細は下記をご参照ください。(https://ajahn-nyanarato.amebaownd.com)