アルボムッレ・スマナサーラ

【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日は「感覚の実況中継と観察」についてスマナサーラ長老がお話します。


[Q]

    「観察する」という言葉ですが、私の理解では花や草木や昆虫などの何かモノ(対象)を見るというイメージがあります。ヴィパッサナー瞑想では、例えば「右足、上げる、運ぶ、下ろす」と感覚を実況中継します。これは感覚を観察しているという意識では無いのですが、これが観察ということなのでしょうか?
 
[A]

■ヴィパッサナーに必要なこと

    ヴィパッサナー瞑想の実践では、頭(思考)を使うことを何とか控えてください。頭で理解しようとする癖が、どこかで引っかかって、囚われてしまうのです。「右足、上げる、運ぶ、下ろす」と足の感覚を実況中継しますね。それがヴィパッサナーで必要な観察なのです。生きることと関係ないもの、花や草木や昆虫や動物などを観察することが、本当の観察ではないかと思っているかもしれませんが、そのような観察は子供たちもやっているし、科学者という方々も行っているのです。でも、誰一人も生きるとは何かと発見しないし、悟りにも達しません。

■生きることそのものの観察

    ヴィパッサナーは生きること自体、生きることそのものを観察することですから、物質的なモノを見ることではありません。「感覚を実況中継する」ことが観察するということなのです。それ以上はありません。余計なことをする必要はありません。知識でやってはいけません。知識が入ってきた時点で、成長はストップしてしまいます。瞑想できなくなります。ヴィパッサナーの観察は、知識で理解できないほど難しいのです。そんなことを言ってしまうと更に余計な知識が増えるだけですが。気づくこと、感覚を実況中継することが観察することだと理解してください。「膨らみ」「縮み」と実況中継しているなら、それは観察していることになるのです。

■妄想に気づくことも観察のうち

    瞑想中に「観察ってどういうことだ?」と思うことは、頭がどこかに飛んで行ってしまった、妄想してしまったということです。それですぐに「妄想、妄想、妄想」と気づいて(実況中継)、意識を戻さなくてはいけない。その時「妄想、妄想、妄想」と気づいたのは、頭が飛んだ(妄想した)ことを観察したということになるのです。

■言葉という道具を頼りに進んでいく

    身体の動きをきめ細やかに観察する。たくさんの現象を観察すると、観察能力がかなり上がります。観察能力が上達すれば、その時は言葉なく観察できるようになります。観察するすべての現象に適した単語・言葉は存在しません。言語は瞑想していない人が作ったものですから、どこまでも使えるという道具ではありません。しかし、基本的には言語に頼るしかありません。動作にはどんな言語でも単語・言葉があります。ですから、瞑想に使えます。名詞は使えません。高度な智慧のレベルに達するまでは、言葉という道具の助けが必要です。


■出典     『それならブッダにきいてみよう:瞑想実践編3』

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