〔ナビゲーター〕

前野隆司(慶應義塾大学)
安藤礼二(多摩美術大学)

〔ゲスト〕
河口智賢(山梨県耕雲院)
倉島隆行(三重県四天王寺)
平間遊心


慶應義塾大学の前野隆司先生(幸福学研究家)と多摩美術大学の安藤礼二先生(文芸評論家)が案内人となり、各宗派の若手のお坊さんをお呼びして、それぞれの宗派の歴史やそれぞれのお坊さんの考え方をざっくばらんかつカジュアルにお聞きする企画、「お坊さん、教えて!」の連載第7回は、曹洞宗の河口智賢さん(耕雲院)と倉島隆行さん(四天王寺)とスペシャルゲストに平間遊心さんをお迎えしてお送りします。


(4)臨済禅やマインドフルネスとの違い


■道元に禅宗という意識はなかった

安藤    禅宗の代表的な宗派に、曹洞宗と臨済宗があります。私がこれまで追ってきた鈴木大拙は僧侶ではなく在家の居士(こじ)として円覚寺で臨済を学びました。大拙は禅の歴史を書く中で「道元禅師がすごいのはわかるけれども納得できない」というようなことを言っています。
    臨済的な禅のあり方と曹洞的な禅のあり方とうのはどういうところが共通していて、どういうところが違っているのでしょうか。センシティブなことかもしれませんので、許される範囲でお聞きできればありがたいのですが。

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安藤礼二先生(撮影=横関一浩)
平間    スリリングなお話ですね(笑)。

倉島    まずは平間さんが切り込んでいただいて、私たちがそれを補足することにしましょう(笑)。

平間    では私から。皆さんご存知の通り、曹洞宗と臨済宗の伝統の源流は同じで菩提達磨大和尚(ぼだいだるまだいおしょう)です。それが中国でいくつもの宗派に枝分かれして、そのうちの曹洞宗を日本に持ってきたのが道元禅師、そして臨済宗を持ってきたのが栄西禅師であると、そのように皆さん思われていると思います。
    栄西禅師のほうは確かにそうかもしれません。しかし道元禅師はあくまでも「仏法」を持ってきたのであって「曹洞宗」を持ってきたと言っているわけではないのですよね。曹洞宗と名付けられたのも後の話です。道元禅師が曹洞宗の伝統を継いだ師匠のもとで修行をされたから曹洞宗と呼称されるようになった。「道元禅師は曹洞宗という教団を必要としなかったけれども、曹洞宗教団が道元禅師を必要としたのだ」と駒沢大学名誉教授の石井修道(いしいしゅうどう)先生が仰っています。
    本当にその通りだと思います。教団としては道元禅師を必要としていて、道元禅師の姿を見本としていたけれども、道元禅師には禅宗という意識すらありませんでした。
    ですから、臨済宗と曹洞宗はどこが同じでどこが違うのかといえば、坐禅をする宗派という意味では同じなのですけれども、いま述べたようなことがまず違うとご理解いただければと思います。
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(写真提供=平間遊心)
倉島    道元禅師は若い頃、延暦寺や建仁寺(けんにんじ)で修行をされ、その後中国に渡られました。当時の中国では臨済宗が勢力を持っておりましたので、出会う方々も臨済方が多かったのですけれども、それには納得できず、如浄禅師に会ったときに初めて「これが自分が求めていた本当のお釈迦様の教えだ」と感じられました。
    如浄禅師という師匠との奇跡的な出会いによって道元禅師は悟りを開かれました。いわゆる身心脱落です。
    如浄禅師がいらっしゃったからこそ、この正伝(しょうでん)の仏法(ぶっぽう)である坐禅が日本に伝わったということは間違いのないことです。


■公案禅と黙照禅

平間    それから、臨済宗さんの特徴は、看話禅(かんなぜん/かんわぜん)です。いわゆる公案というものを使った禅問答をするという伝統ですね。一見何のことだかわからないなぞなぞのようなお題を師匠から与えられてそれに向き合って坐禅をする。白隠禅師(はくいんぜんじ)の「片手で手を叩いたときにはどんな音が鳴るか」という公案が有名ですよね。
    それに対して道元禅師は黙照禅(もくしょうぜん)の伝統を引き継いでおり、看話禅を批判していました。
    ですから、曹洞宗と臨済宗の違いといえばこの類の公案を使うか使わないのかというところも非常に大きいのではないかと思います。

安藤    明確にご説明していただきありがとうございます。

河口    本当に遊心さんの仰る通りです。やはり曹洞宗というのは只管打坐の伝統がございまして、なにか言葉で表現するというものではないと思います。
    道元禅師は「仏道をならうというは、自己をならうなり    自己をならうというは、自己をわするるなり」と仰いました。与えられた公案を解いていくことよりも、自己と向き合うこと、あるいは今この瞬間に起こっていることに対して向き合っていくことこそが我々のなすべきことなのかなというふうに理解しております。それが曹洞宗の坐禅です。

倉島    先ほど安藤先生が「たき木はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪たきぎはさきと見取すべからず」という言葉を取り上げてくださいました。私たちは薪に火を点けると薪が燃えてそのあと灰になると考えます。先に薪があって後に灰があるというのが私たちの常識です。しかし道元禅師は「そうじゃない。薪は薪としての存在において始まりと終わりがあり、同じく灰は灰としての存在において始まりと終わりがあるのだ」とおっしゃいます。私たちの常識的な考え方を一度捨てて、一つひとつにちゃんとフォーカスを当てて物事を正しく見なさいと。それが道元禅師の一つの教えでございます。

前野    私が臨済宗と曹洞宗の違いとして知っているのは、壁に向かって坐るのが曹洞宗で壁を背に坐るのが臨済宗ということなのですが、この違いはなんなのでしょうか?

平間    臨済宗さんも昔は壁に向かって坐っていたという記録が残っていますし、壁に向かわなければ駄目な理由が明示的にあるわけでもないですが、一応歴史的には達磨さんの書き記した書物の中に壁観(へきかん)という言葉もありますし、曹洞宗はその伝統を受け継いでいるのかな、くらいに考えています。
    個人的にもどちらかというと壁を前にしたほうがやりやすかったりします(笑)。
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(写真提供=平間遊心)
    臨済宗と曹洞宗はやはり同じ伝統を共有していますので、近代の曹洞宗のお坊さんたちも臨済宗さんの影響を多分に受けていますし、私の師匠(ネルケ無方師)もかつて臨済宗の東福寺さんで修行しておりました。
    ですから曹洞宗と臨済宗は混じり合っているところもあるんですよね。私自身、違いを強調したいという思いは正直言ってあまりなくて、臨済宗に限らず、近年は黄檗宗(おうばくしゅう)やテーラワーダ仏教も参照しております。


■坐禅はメソッド化されていない

前野    禅宗の坐禅とテーラワーダ仏教の瞑想は素人ながら近いような気がしているのですが、こちらは大乗仏教で向こうは上座部仏教ですのでやはり違うものなのでしょうか?

平間    「坐禅は瞑想じゃない」とはよく言われますね。瞑想やマインドフルネスという言葉が近年日本でも流行っていますけれども、それに対するアレルギー反応のような感じで「坐禅は瞑想ではありません! まったく違うものです!」と禅僧は言いたくなっちゃうんです(笑)。
    もちろんテーラワーダ仏教と曹洞宗は教義や戒律の守り方、文化風土に大きな違いがあります。中でも一番大きな違いは戒律です。テーラワーダ仏教で出家する場合、比丘戒といって戒壇(かいだん)という授戒するための儀式をする場所に10人以上お坊さんを集めて儀式を行うようです。しかし我々日本の僧侶が受けているのは大乗菩薩戒(だいじょうぼさつかい)という大乗仏教の菩薩戒(ぼさつかい)なんですよね。これがまず大きく違います。
    テーラワーダ仏教は近年、世界的に広がっています。特に欧米諸国にものすごく広がっていますけれども、それは英語への翻訳が早かったからという理由も大きいです。その英語で語られているテーラワーダ仏教を見てみますと、実は実践上は坐禅とかなり近いんですよね。近いというか、もし坐禅を私が英語で説明するならばほとんど同じ説明になると思います。

前野    なるほど。そうなのですね。

河口    マインドフルネスと坐禅の違いとして大きいのは、坐禅はメソッド化・プログラム化されていないという点ではないかと思います。テーラワーダ仏教で教える瞑想のように「これを繰り返して積み上げて2週間経ったらこういう状態になりますよ」ということは坐禅にはありません。そこが大きな違いではないかなというふうには思います。
    「こうすればこういう結果が得られる」というようなメソッドになると、企業でも取り入れやすかったりして欧米諸国を中心に受けがいいのですけれども、坐禅の場合は結果重視ではなくプロセス重視と言いますか、その時その時が大事なので、その点が大きく違いますね。
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(写真提供=河口智賢)
平間    そこは大きく違う点ですね。その純粋性を道元禅師は大切にしていました。私自身も長く修行をしてきましたので、結果重視ではなくその時その場を重視するということには馴染みがあります。
    しかしながら、そこにはコントロール不能になってしまうという問題もあって、「今ここにありさえすればいい」という誤解は近代の禅宗でも問題視されてきました。
    これについては実は道元禅師も批判をされていて「今ここだけにあると言い張って、それを悟りとするような奴らは全員、外道(げどう)だ」ということを仰っているくらいです。
    ですから坐禅はプロセス重視で「今ここ」を大事にするものではありつつも、「今ここにありさえすればいい」ということだけには留まらないのだという両面があるということは抑えておいてほしいですね。

河口    仰る通りです。

(つづく)

(3)坐禅と正法眼蔵
(5)禅僧と社会とのつながり