玄侑宗久(僧侶・作家)


新型コロナウイルスの感染拡大によって、経験したことのない困難に直面した私たちは、これからどのように社会を築いていけばよいのか──。僧侶で作家の玄侑宗久師から話をうかがうために、玄侑師が住職を務める福島県三春町の福聚寺を訪ねた。


第3回    コロナ禍に学ぶ鎖国の意義


■江戸時代の鎖国=自給を進める試み

    私がコロナ禍で空いた時間で主にやったことは、『華厳経』を読み直して蓮華蔵世界をあらためて認識したことと、もうひとつ、鎖国というものの見直しでした。コロナ禍ではどこの国も一種の鎖国状態になりましたからね。
    日本がかつて行なった鎖国というのは、交流を断られて孤立したわけではなく、外国への門戸は開かれていました。 鎖国以前にキリスト教も鉄砲も入ってきていて、とくに鉄砲に関しては、日本は相当な製造技術をすでにもっていたらしいのですね。長篠の戦いで信長が武田信玄の軍勢を蹴散らしましたが、あの勢いのままいけば、日本の鉄砲の技術は世界一でした。しかし徳川幕府は、それをわざわざ鉄砲から刀に戻した、退歩させたのです。そして江戸という時代は余計なものが入ってこないように鎖国して、その上で入ってくる素晴らしいものに対しては閉じない構えでした。たとえば吉宗などは蘭学とかヨーロッパの進んだ文化を漢訳した本の輸入を解禁しています。また、新しい文化の入り口として朝鮮通信使もあるし、長崎の出島もあり、完全に閉じてはいなかったわけです。
    これを総じて考えると、要は鎖国というのは、日本国内で様々なものを自給する試みだったと思うのです。たとえば薬品を考えると、鑑真和尚がたくさん持ち込んだり、その後もほとんどが中国から入ってきていたわけです。それを、やはり吉宗の頃ですが、朝鮮人参の国内生産を試みて成功し、国内でまかなおうとするのですね。また、日本各地の売り物になる物産を探し、物産展もやって商売につなげていきました。江戸時代という閉じられた期間のあいだに何をやっていたのかと考えると、各藩内での生産力の増強と、それから文化的な成熟をとても大切に考えていたと思うのです。参勤交代という制度も、若者に一定の江戸体験をさせながら、しかも最終的にはそれを地方に合った形で実現させる。じつに優れた制度ですよね。よく地方の余力を削ぎ取るための制度、みたいに言われて批判されることもありますが、私は家康公の深意はそういうことではなかったような気がします。