【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】
皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「現実と因縁の関係」です。
[Q]
十二因縁について、無明からはじまって老死まで具体的に説明をお願いします。例えば食べ物を見て、「美味しそう」と思い浮かべたとします。食べ物を見て「美味しそう」と思ったことが、どのように因縁と関連しているのでしょうか?
[A]
■「美味しい」「不味い」は主観、食べ物も地水火風
因縁について説明するのは、例え省略して説明したとしても、かなりの時間が必要です。
食べ物を見て「美味しそう」と思うと言いましたが、食べ物は決して美味しくありません。無明があるから、そのように思うのです。「美味しそう」「不味そう」これは判断です。判断というのは、人それぞれの主観によって勝手に決めるものです。なので、はじめに無明が働いているのです。そこにある食べ物は、単に物質で地水火風です。地水火風は変化し続けるものです。止まることはありません。しかし、私たちは食べ物を地水火風とは見ないで、ごはん・焼肉・ハンバーグ・寿司といった名前で呼び、変化しないもののように思っているのです。平気で「美味しいごはんを食べましょう」「これ美味しいですよ」と言うのです。その「美味しい」といった食べ物も瞬間・瞬間に変わり続けている。同時に味も変わりつづけているのです。物質には必ず味があります。しかし、美味しいかどうかは各生命の評価・判断です。各生命の評価・判断は、宇宙全体の真理にはなりません。
■判断は当てにならない
アメリカ人の一部は神様が人間を創造したとして、生物の進化論を間違っていると判断しています。学校でダーウィンの進化論を教えることを禁止しています。この現代社会でも本当にそういうことが起きているのです。生物の進化論を否定し、神が人間を創ったと自分の主観・信仰を主張したとしても、事実が変わるわけではありません。それから地球は平らだと思い込んでいる人々も未だにいる。その人たちが地球は平らだと主張したからといって、地球が平らになるわけがないでしょう。あり得ません。ですから、個人の主観・判断は当てになりません。どうでもいいのです。
しかし、すべての生命は個人の主観・判断で生きています。個人の主観・判断は間違っている。ですが個人の主観・判断でしか生きられない。そこで輪廻が観えてこないでしょうか。先に「美味しそう」という間違った判断を引き起こし、それから実際に食べ物を食べることになる。無明という原因で、「美味しい」と判断したのです。それは、客観的な真理ではなく、自分ひとりだけの判断なので、それに執着をしなくてはいけなくなります。因縁でupādānaという項目です。それから、食べる。妄想したとおりの味だったら、喜びを感じる。妄想した美味しさと味が違ったら、不満や嫌な気持ちなどが起こる。それで大量の業という衝動が溜まったのです。因果法則でupādāna paccayā bhavo という項目です。それから、生老病死、悩み苦しみなどが生まれるのです。食べ物を見て、つい「美味しそう」と思ったかも知れませんが、その気持ちの裏に、確実に苦しみを作る因縁が働いているのです。ひとは中々、この罠からは抜けられないのです。
■具体的な因縁の関係性とは
あなたが出した例を使って説明します。「美味しそう」と思ったこと、これが「無明 avijjā」です。そこからあなたの頭に美味しそうという味のイメージが生まれるのです。実際に食べ物を食べてみたら(「触 phassa」)、そのイメージよりも良い味(「受 vedanā」)が生まれる。次に「欲(渇愛 taṇhā)」が生まれる。次に「愛着(執着)upādāna」が生まれる。どんどん心が汚れていく。そうすると感覚に囚われ、当然執着が生まれています。
それから、明日も同じように美味しいものを食べるぞと妄想する。そうなるとあなたは、いろいろなことをしなくてはいけなくなります。じっと待っていても食べ物が現れるわけではないので、食べ物を得るために行為をしなくてはいけません。環境を整える、準備することに「有 bhava」というのです。次に食べ物を作る・買うなりして、食べ物が現れたことが「生 jāti」です。それをまた同じように「美味しそう」と思って食べたら輪廻する羽目になります。因果法則(因縁)は無明からはじまります。
食べ物を見て「美味しそう」と思ったことは無明です。食べ物はただの物質であって無常です。瞬間に変化する地水火風以外の何でもありません。ここにある座布団も地水火風です。あなたにとっては、食べ物という現象を作った地水火風が「美味しい」という感情を惹き起こしました。でも、まったく同じ地水火風が座布団という現象を作ったならば、ものの見事にそれは「美味しい」とは思わないのです。美味しいという代わりに、別な価値観を入れるのです。その罠から抜けようとして「食べ物も座布団も両方美味しい」と思っても、ただおかしいだけです。座布団の上に座れますから、食べ物の上にも気持ちよく座れると思ったら、それもおかしいのです。正解は、一つの主観を別の主観に入れ替えることではないのです。食べ物も座布団も、地水火風であると思うことなのです。両方とも、因縁によって生じて、因縁によって滅し続けるものです。それが本当の姿です。それを知った人にとっては、執着に値する主観はありません。その場に応じて適切な主観を作るかも知れませんが、それはあくまでもその場限りの主観であって、世間の生き方に自分が同調しただけの話です。
■無明が衝動を引き起こす
無明の次は「行saṅkhāra」です。「美味しそう」と思ったことは無明が働いたこと。次に「食べたい」とう衝動が生まれるのです。この衝動が「行」です。次にどのようにして食べるのかという働きが生まれてきます。食べるという意識が生まれる。これが「識 viññāṇa」です。
省略した説明では次の「名色 nāma-rūpa」「六処 saḷāyatana」という十二因縁の流れには合わないところがありますが、別な経典にある因縁の説明として、「色(物質)」が眼に触れる。そこで「眼識(視覚)」が生まれる。眼識について感覚が生まれる。その感覚に執着する。それから生老病死が連鎖的に生まれると説明されています。執着が生まれると同時に、苦しみの世界を作っているのです。他の耳鼻舌身についても同じことです。また別に因果法則が回転していくのです。
眼耳鼻舌身に色声香味触が触れることは、どうしても避けられません。ストップさせることはできません。しかし、感覚器官に物質が触れて起こる視覚や聴覚などの認識に対して生まれる「好き・嫌い・好きでも嫌いでもない」という感覚に執着を作らないということは自分自身の責任なのです。執着を作らないことにしたら、その人は苦しみの因縁を切断していることになります。省略した説明なので理解できるかどうか分かりません。
■無明とは瞬間の変化を知らないこと
とにかく「無明」の定義だけ憶えておいてください。無明というのは、無常がわからない状態です。俗世間の人が言っている無常というのは、真理としての無常ではありません。物質が変化したという程度の意味です。物質の変化には時間が伴います。生花を持ってきて無常だと言うためには一週間ぐらいかかってしまいます。無常とは瞬間、瞬間、変化していることなのです。すべての生命に無明があることは仕方ありません。みな、無常がわかっていないのです。
生命は現象(物質)を「あるもの」として認識します。当然、それで心が汚れていくのです。無明を非難しても意味がありません。心が無明に基づいて認識することは、単なる事実です。生命は、自分が無明の衝動で生きているという現実に気づかないことが問題です。そこでお釈迦様が、真理に気づくように教えているのです。物質は地水火風で、変化するものであるとわかっている人には執着は生まれません。
■はじまりを追うのではなく、智慧で終わりを知る
理解するのは難しいと思いますが、はじめの原因・出発点・starting pointというのはないのです。ただ説明する場合、スタート・ポイントとして無明という項目から始めるのです。「生命がいないのに、無明が独立して宇宙にぶら下がっている」というわけではないのです。生命に無明があるのです。ですから、無明とは決して、輪廻転生の始原ということにはなりません。卵とひよこの例えで比較すれば、簡単にわかるでしょう「どちらが先?」と自分に訊いてみたら? 聖書は始原について語る。始原を知りたがるのは無知な人々です。例えば、聖書に「はじめにことばありき」と書いてあります。それ以前、何も無かったのです。初めに現れた言葉が原因で森羅万象が現れた、という神話物語です。
■出典 『それならブッダにきいてみよう:瞑想実践編3」