藤野正寛(NTT コミュニケーション科学基礎研究所    リサーチスペシャリスト)


「シアターワーク」という芸術療法のワークショップが今、注目を集めています。演劇や舞踊など舞台表現のメソッドをベースに、身心にアプローチするグループワークです。早稲田大学や慶應義塾大学、海外ではスタンフォード大学などで実践されていて、企業などでも開催の動きがあるといいます。このワークショップを開発し実践をファシリテートするのは、俳優であり、音楽家である小木戸利光さん。十代でファッションモデルとして芸能界にデビューし、若松孝二監督の映画に出演するなど多方面に活躍をしています。シアターワークは小木戸さんが20代で生きることの苦悩に突き当たったとき、英国の大学に演劇留学を通して学んだことをもとにして、生まれてきたものだそうです。今回の連載は、実際にシアターワークを体験し魅せられた人たちの寄稿と小木戸さんへのインタビューなどを通して「シアターワーク」の魅力を伝えていきたいと思います。第1回は私たちに「シアターワーク」の存在を教えてくれた、瞑想研究者の藤野正寛さんです。



■シアターワークとはいったい何?

    “シアターワーク”とはいったいなんなんだろう。ここでは、このことについて書いてみたいと思っています。
    “思っています”と書いたのは、僕自身、まだシアターワークの全容を掴みきれていないためです。シアターワークという言葉に初めて出会ったのは、小木戸利光さんと初めて出会ったときでした。小木戸さんは、イギリスの大学で演劇を学び、日本に帰ってからは、アーティストや俳優としても活躍している、シアターワークの実践家でした。僕は、小木戸さんからシアターワークという言葉を聞いた時に、それがイギリスで開発された手法なんだと思っていました。しかし、小木戸さんと何度か会う中で、それが実は小木戸さん自身が開発した手法なんだということがわかってきました。

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小木戸利光氏(奥)


    それでも、依然としてそれが一体なんなのかということを掴みかねていました。その理由の1つは、シアターワークという手法が、小木戸さん自身が子どもの頃から抱えてきていた生きづらさを乗り越えるために生み出され、しかも現在進行形で変化していっているものだからなのだと思います。それでも、一緒にマインドフルネスとシアターワークをテーマにしたシンポジウムやワークショップを開催するようになる中で、少しずつ少しずつ、そのエッセンスに近づいていっていることを感じています。
    そして、僕が学んできたマインドフルネスと小木戸さんが生み出したシアターワークには何かお互いあい通じるものがあることを感じています。今回から何回かにわたって、小木戸さんを含む様々な分野の人たちが、シアターワークについて文章を書いたり対談をしたりする予定になっています。シアターワークの具体的な内容については、それらによって明らかになっていくことと思います。ここでは第1回目として、その何かお互いあい通じるものをみなさんにも感じていただくために、シアターワークそのものではなく、シアターワークが生み出されるもととなっている小木戸さん自身や、僕が小木戸さんに出会っていった過程に焦点をあてて書いてみたいと思います。

■パンツを脱がされた出会い

    小木戸さんと初めて出会ったのは、僕が2018年6月に東京でおこなったビジネスパーソン向けのマインドフルネス講座に、小木戸さんが参加してくれたことがきっかけでした。全体的にスーツなどの働く格好をしている人が多い中、ゆったりとした服を着ていたのが印象的でした。たまたま、小木戸さんの近くに、慶應大学でマインドフルネスの文化人類学的な研究を進めている井本由紀さんも座っていたことを覚えています。その日、講演会のあとに懇親会が開催され、小木戸さんや井本さんも参加してくれました。懇親会では、なかなか1人の人とゆっくり話すということができないこともあって、小木戸さんともどんなことをしてきたのかといったことを話したぐらいでした。ただ、不思議と惹きつけられる部分があって、ネガティブなテイストではない何か弱さというかもろさというか、そういった存在としてそこにあるという感じの人やなーということを感じていました。
    2回目に小木戸さんに出会ったのは、井本さんが鎌倉で開催したマインドフルネスを活用した教育プログラムに関する勉強会に参加したときのことでした。その時のことは今でもとてもよく覚えています。1度目に出会ってから半年以上経っていたと思うのですが、お久しぶりですという感じで、2人で部屋の端っこに座ってお互いの近況報告などをしていたときのことです。話をしていて、ふと、「あれ?    なんか近いな」と感じたのです。物理的な距離ではなくて、心的な距離が近いように感じたのです。多くの人もそうだと思うのですが、初対面の人やまだそれほど親しくなっていない人と話をするときに、僕のこころは自然とある程度の距離を保つようにできています。いきなり素の状態をさらけ出すのではなく、フォーマルな服を厚めに着ているような感じです。ところが、そのとき、ふと気づいたときには、服の向こう側に小木戸さんがいるのではなく、服のこちら側に小木戸さんがいるように感じたのです。「あれ、なんか知らない間に(こころの)パンツを脱がされてるような……」と感じたのです。そう感じた瞬間に僕はなぜか赤面していました。人前で赤面したのは久しぶりのことでした。ふと視線をそらすと、興味深そうにこちらを見ている井本さんと目が合いました。
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左から、小木戸利光氏、藤野正寛氏、井本由紀氏

■ヴァルネラビリティ=子犬性

    そんなことがあってから、それがどういう体験だったのかということをぼんやりと考えるようになりました。そんなときに、当時東京大学でマインドフルネスの臨床心理学的な研究を進めていた田中慎太郎さんから、東京大学でマインドフルネスに関するシンポジウムをしませんかと声をかけていただきました。そこで、井本さんと小木戸さんと一緒に、マインドフルネスとヴァルネラビリティについて考えると面白そうだなと思い、2人に声をかけました。そうして実現したのが、「マインドフルネスによる実践者の変容〜ヴァルネラビリティから生まれる対話」というタイトルのシンポジウムでした。僕はそのシンポジウムで、そもそもヴァルネラビリティとは何か、それがマインドフルネスにどのように関わっているのかといったことを自分自身の体験を通じて発表しました。ここでは、ヴァルネラビリティとは何かということを簡単にご紹介してから、小木戸さんの話に戻りたいと思います。

    ヴァルネラビリティとは、辞書的には、“脆さ”や“傷つきやすさ”のことを意味します。ヴァルネラビリティについて研究を進めているブレネー・ブラウンは、『不確かでリスクのある状況で、不安・恥・悲嘆・悲しみ・失望が生じる。そうなるのは不可抗力だが、それにどう関わるかは選ぶことができる。鎧を身につけるのか。生身の自分をさらけだすのか。深い関わりやつながりを求めるなら、生身の自分をさらさなくてはいけません』【*1】と言っています。また、スティーブン・マーフィー・重松さんは『自分の弱さを体験する時、それは人生を支えてきた意味や目的が予期せず崩壊する時である。ヴァルネラビリティはひとつの知の形だ。自分の世界観や妥当・正解・明白・普通のやり方についての前提を疑うことで、劇的かつ根源的な意識や視点の変容を招く』【*2】と言っています。

    これらはどういう意味なのでしょうか?    ヴァルネラビリティは、一見すると、なんだかネガティブなイメージが強い言葉のようにも思えます。しかし、具体的に考えてみると、実はそれほどネガティブな言葉ではないことがわかります。例えば、可愛らしい子犬を思い浮かべてみてください。その子犬にネガティブなイメージがあるでしょうか?    ヴァルネラビリティというのは、子犬全体の中の脆く傷つきやすいという1つの性質を表している言葉なのです。井本さんは、遊び心とともに、ヴァルネラビリティを子犬性と訳したりしています。
    私たちのこころをその子犬だとすると、そういった子犬の状態で人とコミュニケーションをとることができれば、より直接的で深い関わりやつながりができるかもしれません。しかし、そのような子犬むき出しの状態で、学校や会社に行くと、様々な刺激によって、多くのもやもやした感情やストレスなどが生じてしまいますし、こころも傷だらけになってしまいます。そのため、私たちは、フォーマルな服を着たり鎧を身につけたりするように、表情をつくったり、言葉遣いをかえたり、本心を隠したりするようになるのです。そうすると、もやもやが少し減ったり、もやもやを他人に見られずにすんだりするようになります。ただし、鎧を身につけることによって、様々なものに無感覚になったり、その鎧を通して世界を見るようになったり、しまいにはその鎧が自分自身だと思うようになったりもするのです。そうして、中には、鎧のほうをどんどん強化していくことに力を注いでしまい、子犬を育てていくことを忘れてしまう人もでてくるようになるのです。

■もやもやを見守り、子犬を育てる

    それでは、どうすれば子犬を育てていくことができるのでしょうか?    そのための方法として、ブレネー・ブラウンは、『生身の自分をさらす』【*1】ことをすすめています。しかし、ここで気をつけなければならないことは、何をさらす、さらけだすのかということです。中には、もやもやそのものや、不安・恥・悲嘆・悲しみ・失望といった感情、あるいはそのとき思ったことをストレートに表現することだと思っている人もいるかもしれません。
    しかし、そうではなくて、ここでさらすべきなのは子犬そのもののほうなのです。ところが、自分の中の子犬といわれてもなんだかよくわかりません。僕らが気づいたり認識できたりするのは、今ここで生じているもやもやした感情や思考のほうなのです。それでは、どうやって子犬をさらけだせばいいのでしょうか?    子犬という存在としてそこにあることができるのでしょうか?

    その方法の1つが、気づいたり認識できたりするもやもやのほうをありのままに見守るということなのです。スティーブン・マーフィー・重松さんは、『自分の弱さを体験する時、それは人生を支えてきた意味や目的が予期せず崩壊する時である』【*2】と言っています。つまり、そういったもやもやに気づくことで、初めてそこに自分がそれまでに作り上げてきた鎧と子犬との間にギャップがあることに気づけるのです。そのとき、そのもやもやをなんとかしようと躍起になると、結果的にさらに鎧のほうを強化することにつながってしまうのです。そうではなくて、そのもやもやをただありのままに見守ることで、自分の世界観や妥当・正解・明白・普通のやり方といった鎧が少しずつ取れていくのです。そうやって、少しづつ鎧を脱ぎながら子犬という存在としてそこにあることを続けることで、子犬が徐々に成犬に育っていくのです。

■開かれた存在になっていく

    僕が小木戸さんと初めて出会ったときに惹きつけられたのは、小木戸さんがまさにそういったヴァルネラブルな存在としてそこにあるということを感じたからなのだと思います。そして、2回目に出会ったときに(こころの)パンツを脱がされているように感じたのは、そのヴァルネラブルな存在として関わってきてくれたために、こちらもそれに呼応する形でヴァルネラブルな存在になっていたからなのではないかと思います。僕自身は、これまで、マインドフルネスの実践を通じて少しずつヴァルネラブルな存在であることに近づいてきたように感じています。それに対して、小木戸さんは、自分自身が子どもの頃から抱えてきていた生きづらさと関わり合い、それを表現することを積み重ねることでヴァルネラブルな存在であることに近づいてきたようなのです。そういう意味では、アプローチ方法には違いがあるけれども、向かう方向、子犬性の獲得という方向は同じなのではないかなと感じています。
    東京大学でのシンポジウムでは、時間的な制約などもあり、参加者全員でシアターワークを体験することはできませんでした。そこで、僕が小木戸さんと向き会うことで体験したことを参加者のかたたちにも感じてもらいたいと思い、小木戸さんにパフォーマンスをしてもらうことになりました。時間にすると15分くらいのことだったと思います。参加者みんなで自分自身の心臓の鼓動、さらには周囲の人々の心臓の鼓動、そして小木戸さんの心臓の鼓動を感じながら、小木戸さんのパフォーマンスを見守りました。何人かの人々は、そのパフォーマンスを見守りながら、静かに涙を流していました。開かれた存在がそこにあるとき、私たちのこころは自ずから開かれていくことがあるのだということを実感することができました。
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ワークショップでパフォーマンスする小木戸利光氏

    今、小木戸さんは、その開かれた存在であるということ、さらにはその開かれた存在として他者と関わるということを日々の生活の中で実践していくための方法としてシアターワークを生み出し育てつつあります。僕は、多くの人にこのシアターワークのエッセンスに触れてもらいたいと思っています。そして、その人たちが前よりも少しずつ開かれていき、その周りにいる人たちも前よりも少しずつ開かれていく。そんなことが広がっていくと素敵だなと思っています。

【脚注】
*1──ブレネー・ブラウン(2018). 門脇陽子(翻訳)『本当の勇気は「弱さ」を認めること』サンマーク出版
*2──スティーブン・マーフィー・重松(2016). 『スタンフォード大学 マインドフルネス教室』講談社