アルボムッレ・スマナサーラ(テーラワーダ仏教(上座仏教)長老)

Suttanipātapāḷi     5. Pārāyanavaggo     10. Kappamāṇavapucchā 
※偈の番号はPTS版に準ずる。(    )内はミャンマー第六結集版の番号


一流の学究者16人と、智慧の完成者たるブッダの対話によって導かれた真理を、スマナサーラ長老が現代的に解説していくシリーズ。今回は10人目となるカッパ仙人とお釈迦様の対話をお届けします。全5回の第2回。


第2回:生きる悩みから解放される唯一の方法


■ブッダの答え1    島を説く宣言

1093(1099).
Majjhe sarasmiṃ tiṭṭhataṃ, (kappāti bhagavā) 
Oghe jāte mahabbhaye;
Jarāmaccuparetānaṃ, dīpaṃ pabrūmi kappa te. 

〔参考訳〕
    師(ブッダ)は答えた、「カッパよ。極めて恐ろしい激流が到来したときに一面の水浸しのうちにある人々、老衰と死とに圧倒されている人々のための洲(避難所)を、わたしは、そなたに説くであろう。


    ブッダは、カッパさんの問いかけの文章をそのまま繰り返しています。変わっているのは3行目のセクションだけです。「そのような島をあなたに説きます」、「あなたが言う条件がすべてそろった島について説きます」とカッパさんに受け合うのです。その具体的な内容は2番目の答えで説かれます。

■ブッダの答え2    「なにもない」という島

1094(1100). 
‘‘Akiñcanaṃ anādānaṃ, etaṃ dīpaṃ anāparaṃ;
Nibbānaṃ iti [nibbānamīti (sī.)] naṃ brūmi, jarāmaccuparikkhayaṃ.

〔参考訳〕
いかなる所有もなく、執著して取ることがないこと、──これが洲(避難所)にほかならない。それをニルヴァーナと呼ぶ。それは老衰と死との消滅である。


    ●諦めればそこで終わり

    Akiñcanaṃ anādānaṃ(アキンチャナン  アナーダーナン)、このakiñcanaṃ (アキンチャナン)という単語は訳が難しいのです。Akiñcanaṃというのは、日本語訳では「いかなる所有もなく」となっています。Akiñcanaṃというのは「なにもない」という意味なのです。でも、「なにもない」にいたる道があるのです。これから説明します。
    先ほど、卵のたとえを出しました。「私は卵が食べたい。しかし、白身も黄身も嫌いだ。絶対に食べたくない」という状況に陥ったとき、答えは二つあるのです。「嫌」という気持ちを捨てて卵を食べるか、卵を諦めるか、どちらかなのです。そういうわけで、この二つの答えに合わせて、偈の解釈を分けなくてはいけないのです。
    次のanādānaṃ(アナーダーナン)は「執着することもない」、つまり「無執着」です。無執着の反対は執着です。だから執着するか無執着にするか、どちらも答えなのです。しかし、執着すると、kiñcanaṃ(キンチャナン)という問題、「どちらにするのか」という問題が必ず出てくる。嫌々でも卵を食べることになったら、どんな料理にするのかという問題が出てくるのです。
    たとえば日本の四角い形の卵焼き、「形もきれいだし、あれどうですか?」「いやー、砂糖を混ぜたりいろいろなことをしているのだからね。作り方も面倒だから嫌だ」。「では、スクランブルエッグは?」「見た目がごちゃごちゃしてるし、スプーンで食べればいいのか、箸で食べればいいのかわからないから、やっぱ面倒くさい」となる。そうやって、卵を食べることに決めると「これではなくこれ」「これではなくこれ」というふうな問題が出てくるのです。Kiñcanaṃというのはそういう意味、「どちらにしようかな?」ということです。ラーメンを食べたいのだけれど、ここらへんには百軒のラーメン屋がある。さて、どこの店に入るべきでしょうか?    いろいろな条件を調べて、仕方なく一軒のラーメン店を選んで店の前に来たところで、どうも納得できません。じゃあ10番目のところに行きましょう、と決めて10番目の店に行ったら、やっぱりなんとなく最初の店のほうがよかった気がする。あっちは老舗のような感じがしたから、もっとおいしいかも……。結局、どこを選んでも不満が残ってしまう。
    そういうわけで、卵を食べること、つまり生きることに執着すると決めたならば、この問題から逃げられなくなるのです。卵の例がピンと来なければ、なにか別の例を考えてみてください。もう徹底的に命に執着してもいいと決めて、執着してしまったら、その時点からあらゆる問題が出てくるのです。
    生に執着すると決めても、なにを食べればいいか、どんな服を着ればいいか、髪型はどうしようかとか、どこに住もうかなとか、結婚するかしないか、子どもをつくるかつくらないかとか、いろいろな問題が出てくる。そこで、結婚することに決めたとする。それで問題は終わりますか?    いいえ、終わりません。結婚したパートナーに執着してしまうと、また激しい精神的な悩みが現れるのです。この悪循環は決して避けられません。卵を食べると決めたら、どんなふうに食べるかを必ず決めなくてはいけない。しかし、決めたとしてもそれは卵料理の最高バージョンではないのです。
    Akiñcanaṃというのは、そういう状態から心が解放されることです。「ラーメンを食べない」と決めたら、ラーメン屋が百軒並んでいても一万軒並んでいても、どうってことないでしょう。その界隈に入りません。ラーメンは食べませんからね。「面白いよ、あそこにはラーメン店が五百軒、千軒もあります。それまたいろいろ研究されていて飛鳥時代やら縄文時代から昭和時代までのラーメンの、いろいろな作り方がそろっていますよ」とか。でも、食べないと決めたなら「食べませんからね」という一言で悩みは消えます。しかし、千軒あるラーメン街に入って自分にとって一番おいしいラーメンを食べて吾輩は満足するぞと思った人は、限りない精神的な悩みに出会わなくてはいけません。これはどうにもならないのです。Akiñcanaṃというのはその問題から解放された、ということです。
    次の単語はanādānaṃ、「無執着」です。Ādāna(アーダーナ)とは「あ、これに決めました」と取って執着することです。その否定形であるanādāna(an-ādāna)(アナーダーナ)は「執着はしない」という意味になります。Akiñcanaṃとanādānaṃの二つは類義語ですが、機能的には二つに分けて解説をしたほうが理解する人の役に立ちます。取らないこと、無執着ということがなければ、akiñcanaṃ(無所有)にはなりません。だから、単語を二つ並べていることにも意図があるのです。

    ●命は妄想

    ここでお釈迦様がおっしゃっている島とは、先ほどの卵のたとえで言えば、「卵自体を諦める」ことなのです。最初に「卵を食べたい」と思ったけれど、卵とは何かと調べたら白味と黄味だった。本人にとっては、白味と黄味は嫌なのです。それでも、彼は知識不足で「卵を食べたい」と思ってしまう。そこでその人は勉強します。勉強した結果、「卵とは白味と黄味であって、それ以外の何物でもない」と発見する。そうであれば、卵は食べるべきものではない。欲しいと思った自分がバカであった、自分はとんでもない無知だったことを悟る。ここまで来て、ようやく執着が消えるのです。
    この勉強なしに、「あなた、もう卵を食べるのはやめなさい」と言われても、それは無理な話です。本人が頑張って一日か二日くらい、卵を避けるかもしれませんが、また「食べたい」という気持ちがわきあがってきます。そういうわけで、勉強して事実を発見するということがどうしても必要です。ここで卵の白味と黄味にたとえたのは、カッパさんとお釈迦様の偈に出てくる「老」と「死」のことです。生命という「卵」は、老・死という白身と黄身で成り立っているものです。それなのに、私たちは「命がほしい。しかし、老・死だけは勘弁してくれ」と言っているのです。
    Etaṃ dīpaṃ anāparaṃ(エータン  ディーパン  アナーパラン)、「これが洲(避難所)にほかならない」。これ以上、優れた島がありません、という意味です。これこそが唯一の答えなのです。
    Nibbānaṃ iti  naṃ brūmi(ニッバーナン  イティ  ナン  ブルーミ)、「それをニルヴァーナと呼ぶ」。唯一の島を他の言葉で呼ぶならば、nibbāna(ニッバーナ)(涅槃)とも言います。Jarāmaccuparikkhayaṃ(ジャラーマッチュパリッカヤン)、「それは老衰と死との消滅である」。あるいは、老衰と死がなくなった、終了したところとも言うのです。嫌がっていた老・死の二つがなくなった境地が説かれています。
    そこで、「ああ、老・死じゃない命があるのだ」と思う愚か者がいるのだけど、それはご自由にどうぞ。「黄味も白味もない卵がどこかにあるのだ」と、思いたければ勝手に思いなさいということになるのです。老衰と死の消滅とは、命の消滅でもあります。そういうわけで、皆が大切に守ろうと頑張っている「命」というのは、本当はいいかげんな妄想なのです。「かけがえのない命」とか、「私の命」とか、「私」とか、すべて妄想に駆られて悩んでいるに過ぎないのです。

(第3回につづく)


2017年11月10日    ゴータミー精舎での法話をもとに書き下ろし
構成    佐藤哲朗


第1回:人生の苦から逃れられるところとは?
第3回:命の真理を知って、悪魔に打ち克つ


お知らせ

アルボムッレ・スマナサーラ[著]
『スッタニパータ    第五章「彼岸道品」』
紙書籍のご紹介


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今後の続刊に収録する法話を、『WEBサンガジャパン』で連載していきます。
『第三巻』の刊行をご期待いただくとともに、『第一巻』『第二巻』もどうぞお買い求めください。(サンガから刊行した『第一巻』『第二巻』は数に限りがございますので、お早めにご注文ください)

一流の学究者16人と、
智慧の完成者たるブッダの対話によって導かれた真理を、
鮮やかな現代日本語でわかりやすく解説する。

第一巻
Ⅰ    アジタ仙人の問い
Ⅱ    ティッサ・メッテイヤ仙人の問い
Ⅲ    プンナカ仙人の問い
Ⅳ    メッタグー仙人の問い

第二巻
Ⅴ    ドータカ仙人の問い
Ⅵ    ウパシーヴァ仙人の問い
Ⅶ    ナンダ仙人の問い
Ⅷ    ヘーマカ仙人の問い


【以下、第三巻以降に収録予定】

Ⅸ    トーデイヤ仙人の問い
Ⅹ    カッパ仙人の問い
Ⅺ    ジャトゥカンニン仙人の問い
Ⅻ    バドラーヴダ仙人の問い
XIII    ウダヤ仙人の問い
XIV    ポーサーラ仙人の問い
XV    モーガラージャ仙人の問い
XVI    ピンギヤ仙人の問い


『第一巻』『第二巻』は「サンガオンラインストア」と「Amazon」で販売しています。販売ページのリンクをご紹介します。

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スッタニパータ    第五章「彼岸道品」
第一巻


アジタ仙人の問い/ティッサ・メッテイヤ仙人の問い/
プンナカ仙人の問い/メッタグー仙人の問い

アルボムッレ・スマナサーラ[著]





 

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スッタニパータ    第五章「彼岸道品」
第二巻


ドータカ仙人の問い/ウパシーヴァ仙人の問い/
ナンダ仙人の問い/ヘーマカ仙人の問い

アルボムッレ・スマナサーラ[著]