シュプナル法純(僧侶)
大来尚順(僧侶)

「エンゲージドブッディズム」とは、社会問題に仏教的視点から積極的に関わる運動を指し、「社会参画仏教」「行動する仏教」とも称されます。
ポーランド出身の曹洞宗僧侶・シュプナル法純師は、このエンゲージドブッディズムに対し、仏教が社会的な活動に重点を置くことで、仏教の本質が変質するのではないかと、鋭い問題提起をしています。果たして、仏教は社会活動とどのように関わるべきなのでしょうか?
本企画では、長年エンゲージドブッディズムを研究し、現在は通訳や翻訳・執筆・講演などでも活躍する浄土真宗本願寺派超勝寺住職・大來尚順師をお迎えし、シュプナル法純師とともに、このテーマを掘り下げます。エンゲージドブッディズムの未来を考える対話が、今、始まります。(司会:サンガ新社    佐藤由樹)

第1回    2人の仏教者の、これまでの歩み


●法純師の問題提起

──今日のテーマはエンゲージドブッディズムです。エンゲージドブッディズムは社会的な問題に対して仏教から積極的に関わっていく動きを表す言葉で「社会参画仏教」「行動する仏教」、さらには「戦う仏教」というものまで、様々な呼ばれ方をされながら、世の中の課題を解決していく力として存在感を発揮しています。また、エンゲージドブッディズムはベトナム出身の禅僧ティク・ナット・ハン師の活動によって広く知られるようにもなってきた経緯があり、現在もその役割が注目されています。そうした中、本日ご登壇いただくポーランド出身の曹洞宗僧侶のシュプナル法純さんは、『サンガジャパンプラスVol.2』の中でエンゲージドブッディズムについて次のように問題提起しておられます。

「仏教は元々エンゲージドブッディズムではありません。むしろディスエンゲージだったと思います。おそらくイズムになってからエンゲージドされたかと思います。」(『サンガジャパンプラスVol.2』p135)


    仏教は元々エンゲージドブッディズムではないのではないかという、とても刺激的なご提言です。そして、さらに次のようにおっしゃいます。

「社会的にエンゲージドになると、結局、やっていることの仕組みそのものが社会的になって、本来の仏教とは違う方向に行ってしまう恐れが非常に高いと思います。そうすると社会的な問題を中心にする僧も、畢竟(ひっきょう)、俗的になってしまいます。しかし社会的な問題を取り上げるべきなのは社会人であり、仏道のことをすべきなのは僧ではないでしょうか。」(『サンガジャパンプラスVol.2』p138)


    これらの問題定義は、これからのエンゲージドブッディズムを考える上でとても重要だと思います。そこで今回はエンゲージドブッディズムを長らく研究されて、現在は浄土真宗本願寺派超勝寺住職として仏道を実践されている大來尚順さんとのお二人でエンゲージドブッディズムについてお話しいただこうと企画しました。ちょうど同年代で、国際的にもご活躍されるお二人です。現代社会に対する鋭い視座でテーマを掘り下げていただくことで、エンゲージドブッディズムのこれからについての理解を皆で深めていければと思っています。
    ではまず、大來さんから、エンゲージドブッディズムを長く研究されておられたそうですが、その経緯や、研究したところのエンゲージドブッディズムとはどういうものかというあたりについて、簡単に教えていただけたらと思います。よろしくお願いします。

●大來師のエンゲージドブッディズム研究のいきさつ

大來    大來と申します。はじめに、なぜ自分がこのエンゲージドブッディズムと言われるものと向き合っているのか、お話をさせていただこうと思います。
    私が「エンゲージドブッディズム」という言葉と巡り合ったのは、20歳のときで、今から22年ぐらい前になります。私が仏教を勉強し始めたのは18歳です。日本独特の事情ですが、お寺で生まれ育ち、一番身近な僧侶の存在が父と母でした。2人とも僧侶の籍を持っていました。そして「田舎のお寺あるある」なのですが、お寺の仕事だけでは経済的に護寺が難しいため、月曜日から金曜日まで、父は県庁で公務員をし、母は裁判所で書記の仕事をしている、というような環境でした。ですので私は、特に仏教の専門的な用語やお寺のしきたり等をあれこれ教えられたということではなく、日常生活の中で仏教に基づく人と関わる上でのまなざしとか、考え方、捉え方を自然と実践する両親を見ながら育ちました。
    そんな私が、京都にある龍谷大学で仏教を学ぶご縁をいただき、2年間授業をさぼることもなく、まじめに勉強したのですが、何か悶々としていたのです。その理由は、「仏教は亡くなった人のためのものなのだろうか?」と感じていたからです。さまざまな先生方から多くの大切な教えを示していただいたのですが、どうも生きている人のための教えを学んでいる気がしなかったのです。たまたま私が履修する授業の選択が悪かったのかもしれませんが、亡くなった方をどうこうするというようなことではなく、今、生きていて悩みや苦しみを抱く方々に何を説いていくかの学びを得たいと悶々としていたのです。そんな最中に、本屋で『社会をつくる仏教』(人文書院、2003年)という本に巡り合いました。著者は、その当時は明治学院大学の教授をされていた阿満利麿(あまとしまろ)という方です。この本を読んで「自分が求めていたものはこれだ!」と思ったんです。そこからこの分野にどっぷりはまり、研究が始まりました。ただ残念だったのが、その当時はエンゲージドブッディズムという概念は日本では新しいもので、日本語で書かれていた専門書がほとんどありませんでした。

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大來尚順師
法純    そんなにもなかったんですね?

大來    はい。その当時にエンゲージドブッディズムについて書かれていた本はおそらく阿満先生の『社会をつくる仏教』のみだったと思います。それより以前には、丸山照雄先生が書かれた『闘う仏教』(法蔵館、1991年)はありましたが、それ以外は日本語の本はなかったんです。しかし、英語の本はたくさんあったのです。ですから、さらにエンゲージドブッディズムの研究を深めていくためには、英語を勉強するしかないと思い、そこから英語を勉強し、アメリカの大学院に進学し、さらに研究を深めていきました。

●エンゲージドブッディズムの様々な捉え方

大來    エンゲージドブッディズムとはどのようなものなのか、私なりに簡単にお伝えすると、仏教にはサンスクリット語でヤーナ(乗り物、道、教えの意)という言葉で分類される仏教の形態が3つありますね。ヒナヤーナ、マハーヤーナ、ヴァジュラヤーナです。ヒナヤーナとは、いわゆるテーラワーダ・上座仏教、別の言い方では小乗仏教と言われるもの。マハーヤーナは大乗仏教。そしてヴァジュラヤーナは密教。これが伝統的な仏教の形態だったのですが、その形態に4つ目のヤーナとして、エンゲージドブッディズムが位置づけられるのです。つまり、第4の仏教の形態です。新しいという表現がよいのかわかりませんが、現代に即した仏教という形態として私は理解しています。

法純    本を読んで、そう理解されたということですね。

大來    はい。また、実際にこのような理解と共に研究される方がいらっしゃいました。その方というのが、エンゲージドブッディズム研究の第一人者であるハーバード大学のクリストファー・クイーンという先生です。私はその方のもとで勉強したいと思いハーバード大学の門を叩いたのですが、その方が「フォース・ヤーナ」、つまり「第4の仏教形態」という言葉でエンゲージドブッディズムを表現されました。そのとき、私は「あ、なるほどな」と腑に落ちた気がしました。しかし、私は自分で研究を進めるなかで、エンゲージドブッディズムを第4の仏教形態として理解することも一つの捉え方ですが、そもそもエンゲージドブッディズムというものをどのように定義するかによって、フォース・ヤーナなのか、それとも先ほど法純さんがおっしゃった、もともと仏教はエンゲージドブッディズムではない、つまりディスエンゲージの部分がありつつもエンゲージする部分もあるというようなことを考えるようになりました。そして行き着いたのが、これはあくまでも私自身の捉え方ですが、エンゲージドブッディズムを「仏教の再生」と捉えたのです。現代社会の中で埋もれてしまった教えに今一度、息を吹き込むようなイメージです。

法純    仏教をアップデートするって感じですね。

大來    そう、アップデートする感じです。いろいろな理解や解釈があると思うのですが、私自身はこのような感じで理解をしています。このことを踏まえた上で、これから法純さんとの対談を深めていきたいと思います。

●キリスト教への疑問から仏教との出会いに

──今のお話を受けて次は法純さんから、仏教との出会いも含め、エンゲージドブッディズムについてお話しください。

法純    はい。よろしくお願いします。先ほど、佐藤さんが私の紹介文を読んでくださったときに「仏教経典の翻訳や通訳もしている。外国人向けの坐禅会や日本を訪れる外国人のために仏教英語講座をしたりする」と言ってくれて、それがエンゲージドブッディズムに当たるのではないかと思いながら聞いていました。(笑)
    私はポーランドの出身です。子どものときに教会で洗練を受けて、カトリック教徒のティーンエイジャーでした。ただし、自分の意志でカトリック教徒になったということでもなく、真面目に宗教や神さまについて考えたこともありませんでした。そのためか、17歳か18歳のとき、初めて危機が訪れました。教会に嫌気がさしたのです。何が嫌か、今は覚えていませんが、とにかく、キリスト教に関して疑問的に思ったのです。神様は本当にいるのか、信仰とはどういうものか、のような疑問を起こしました。それが、キリスト教以外の道を求める始まりでした。ティーンエイジ・レベルという時期もあっただろうと思いますが、やはり、この人生という大きな悩みをなんとかしたい、そういうような気持ちが湧いてきたと思います。そういう因縁で釈尊の生き方にひどく憧れ、魅力的に思いました。それで仏道に入ることにしました。

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シュプナル法純師
(第2回に続く)

2024年5月21日    東京にて開催
サンガ新社セミナー「エンゲージド・ブッディズムは仏教なのか?」を元に再構成
構成:川松佳緒里
撮影:横関一浩


第2回    エンゲージドブッディズムへの批判的視点