シュプナル法純(僧侶)
大来尚順(僧侶)

「エンゲージドブッディズム」とは、社会問題に仏教的視点から積極的に関わる運動を指し、「社会参画仏教」「行動する仏教」とも称されます。
本企画では、ポーランド出身の曹洞宗僧侶・シュプナル法純師と、長年エンゲージドブッディズムを研究してきた浄土真宗本願寺派超勝寺住職・大來尚順師をお迎えし、仏教は社会活動とどのように関わるべきなのかを掘り下げます。エンゲージドブッディズムの未来を考える対話、全6回連載の第2回をお届けします。

第2回    エンゲージドブッディズムへの批判的視点


●エンゲージドブッディズムへの誤解

大來    法純さんの話を聞いていて共通認識というか、結局は、「苦しみ」がキーポイントなのかなと思いました。

法純    そう思います。

大來    「苦しみ」をどう受け取るか、ここが一番重要だと思います。エンゲージドブッディズムでよく誤解されるのが、何でもかんでも仏教を社会に参画させればいいというわけではないんですよ。

法純    私のエンゲージドブッディズムのイメージは、何でもかんでも社会に参画というイメージでした。

大來    それが大きな誤解であり、その誤解によって危険性がもたらされることもあります。そもそもエンゲージドブッディズムのエンゲージとは「苦しみ」に従事するという意味なんです。だからただ単に社会にエンゲージしていくのであれば、極端な話ですが、戦争協力だってエンゲージになるんですよ。そうではなくて、社会の中に混在する様々な「苦しみ」にどう従事していくかというところに、エンゲージドブッディズムの意味があるのです。少し歴史を紐解くと、エンゲージドブッディズムという言葉が生まれた背景にはベトナム戦争があります。この言葉は、ベトナムの禅僧であるティク・ナット・ハンが作られた造語ですが、1963年にティック・クアン・ドックという方が、ご自身にガソリンをかけ、火をつけ、道端で焼身供養をされました。

法純    写真も有名ですね。

大來    はい。当時はベトナム戦争に関係する情報は操作されていて、ベトナムで起こっている悲惨な実態が一切外に漏れないようになっていたのです。しかし、焼身供養という大きな出来事によって、戦争下にあるベトナムの実態が世界に流れ、各地で反戦運動が広がっていきました。このような状況下にも関わらず、当時のベトナム仏教界は何も行動を起こしていませんでした。目の前で大勢の人々が苦しんでいるのに、身を潜めていました。そんな中、苦しむ人々を救おうと立ち上がる僧侶もいました。反戦運動参加したり、ティック・クアン・ドックが実践された焼身供養を同じように実践される方々もいました。これが良いことなのか悪いことなのかは別にして、約20人もの僧侶が焼身供養を実践したと言われています。このようなことを背景に、社会が作り出している「苦しみ」に仏教は何ができるのか、という問題提起から生まれたのが「エンゲージドブッディズム」という言葉だったんです。その言葉が作られた背景について書かれた“Lotus in a Sea of Fire”という本があります。

法純    日本語訳もありますか。

大來    日本語訳された本は『火の海の中の蓮華―ベトナムは告発する』(読売新聞社、1968年)というタイトルで出版されています。しかし、すでに絶版になっています。私自身、和訳版は読んだことはありません。

●仏教って「なんでもあり」の宗教?

法純    エンゲージドブッディズムは仏教ではないというテーゼがこの対談の出発点だったのですが、そもそもなぜそういうことを言ったのか、少し説明させてください。日本人の多くは、大乗仏教というフィルターで仏教を把握していると思います。そして、大乗仏教の本質は在家なんです。しかし、歴史的にいえば、大乗仏教以前に、釈尊の説かれた本来の教えもありました。それは大乗仏教とはだいぶ違います。そして、釈尊の説かれた道はいわゆるブッディズムではなかったと思います。あくまでも、特別な生き方、そのものでした。そして、その生き方の特徴は出家だったと思います。出家は、社会と無関係の生き方なのです。釈尊が説かれた道を、日常生活の中で実践するのは無理だと思います。そういう意味では仏道はディスエンゲージドな生き方だと言いました。その「ディスエンゲージド」というのは、修行に励むことでしょう。自己に向き合うことなのです。それこそが仏教という道の大きな特徴だと思います。
    しかし、時間が経って、大乗仏教などの考え方が現れて、「衆生を救う」「みんなのために」「相手のために善いことをしましょう」というかたちで、「今の生活をしたままでも仏道を歩むことが可能だ」というパターンが出てきました。
    その端的な例が日本仏教ではないかと思います。そこでは「お坊さん」というものが、社会という枠組みの中で、サービスマンの一つになっているのではないでしょうか。どういうサービスかと言いますと、ご先祖供養です。ユニフォームは公務員と違いますが、ある意味では「公務員」です。ユニフォームといえば、最近はお袈裟より、スーツを着るお坊さんも多いようです。
    しかし、日本における仏教は、もともと国家を護るための宗教だったのですから、お坊さんという存在に社会的な側面が強いことは、別に珍しいことではありません。でも、釈尊がそういう意味でのお坊さんだったのかと考えると、なんとなく違和感を感じます。それは、彼がお坊さんではなくて、沙門だったからです。沙門、つまり自分の努力で幸福(ニルヴァーナ)を得ようとする者です。お坊さんが必ずしも求道者だとは限らず、求道者が必ずしもお坊さんであるとは限りません。その点はよく間違えやすいところだと思います。
    さらに日本の場合、昔から真言宗の高野山の権力者、天台宗の比叡山の権力者たちは、親しく政治を孕んだり、社会的な面が強かったため、そういう意味でも、やはり、宗教はあまり社会の問題にエンゲージしないほうがいいと私は思います。
    ですから、元々、かなりラディカルな道であった仏教は、今、「なんでもあり」の宗教になってしまったような気がします。特に日本仏教にそういう面を非常に強く感じます。絆、つながり、命、というようなキーワードが非常に流行っているような気がします。先日も、久しぶりに家族や友達との昼ごはんを食べに行きました。さまざなな話の中、仏教についての話もしました。そのときに、ある家族の友人は、「法純さん、なぜ日本人が名僧智識のことをそんなに尊敬しているか、知ってるの」と聞かれました。名僧智識、つまり「えらいお坊さま」という意味ですから、「知りません」と答えました。すると彼は「昔からお坊さんたちは、一般人と一緒に酒を飲んだり、お嬢ちゃんたちと遊んだりしていたので、私たち、普通の国民の悩みや苦しみをよく分かってるからだよ」と言うのです。私は、そういうところが一番良くないところだと思っています。他の日本人もそう思うのでしょうか。お寺で住職と酒を飲んだり、芸者と踊ったりするのは、日本仏教の当たり前のことなのでしょうか。
    社会へ貢献することができるならば、なんでもオッケーということは仏教ではないのです。さらに、本屋さんへ行き、仏教本コーナーをよく見ますと、「優しくなる仏教」「みんなのための仏教」のような本ばかりです。まるで優しくなるというのは仏教の根本の教えのようなことだと思われます。しかし、仏教は本来、そういう「なんでもあり」の宗教ではなかったと思います。今のコンプライアンスの時代の影響でしょうか。