第1回 仏教にもともとセルフコンパッションはない?
■「自己肯定感を高める」という発想を不思議がる人たち
マハチュラ大で学ぶわたしの周りにいるお坊さんや尼さんは国や宗派を問わず、日本生まれ、日本育ちのわたしから見ると、呆れるほど自己肯定感が高い人が多いという印象があります。その傾向は幼少期に出家している人ほど高いように感じます。時に皮肉っぽく「どうしてあなたはそんなに自分のこと好きなの?」と聞いても、彼らはキョトンとした顔で「え? 好きじゃないの?」と聞き返されることがほとんどです。
彼らの「自信に満ちた謙虚な眼差し」に出会うと、1990年代初頭にダライ・ラマ14世があるカンファレンスに出席した時の逸話を思い出します。そのカンファレンスには、MBSRの考案者で知られるジョン・カバット‐ジン、心理学者でEQの提唱者であるダニエル・ゴールマン、アメリカの瞑想研究家シャロン・サルツバーグなど、現代マインドフルネスの主流を作り上げた錚々たる研究者たちが出席していました。彼らとの会話の中で、ダライ・ラマ法王は現代社会において、多くの人々が自己を肯定できないという事実をはじめて知ったのです。
シャロン・サルツバーグが法王に「現代の人々は自分のことを嫌いな人が多いのですが、そんな人のセルフ・エスティーム(自己肯定感)を高めるにはどうしたらいいですか?」という質問をしました。すると法王はその質問に面食らって「どういうことですか?」と聞き返したのです。そこで現場に居合わせたアメリカの名だたる研究者たちが法王に詳しくセルフ・エスティーム(自己肯定感)という言葉の意味や、多くの人が自己を肯定的に捉えることができない現状を説明しました。ですが当時の法王はピンと来なかったらしく、不思議な顔をしたそうです。
それを見たジョン・カバット‐ジンが「もしかして驚いてますか?」と聞くと、「ええ、とても。わたしは世界で起こっていることを知っているつもりだったんですが、何も知らなかったようですね。」と法王は答えたそうです。人間に限らず、生まれた命はみな尊いと考えるチベットの文化には、自分を高くしたり低くしたりするという発想がそもそもなかったのです。法王にとってそれは不自然な考え方で、そのような物差しにとらわれて苦しんでいる人間が存在することにショックを受け、それ以来セルフ・エスティーム(自己肯定感)についてたくさん言及されるようになったというのです。(Daniel Goleman "Healing Emotions: Conversations with the Dalai Lama on Mindfulness, Emotions, and Health"より)
わたしはこの話の状況にとても共感を覚えたのですが、法王が驚いたのとは反対の立場から「自信に満ちた謙虚な眼差し」に驚いたのです。自己は尊厳があって当たり前だから、自己を肯定も否定もしないという人間が存在していたことがショックでした。自己に対して肯定や否定という発想がないので、無条件にいつもドヤ顔だったり、ポーカーフェイスだったりします。旅行などで災害やトラブルなどに巻き込まれても、普通にお茶を飲んでいたり、冗談を言っていたりするのです。冷静沈着というよりは、事態に気づいていないような不思議な雰囲気を醸し出していて、わたしは勝手に相手の分までソワソワしてしまいます。でもそうではなくて、単にトラブルにあまり影響されない鋼の心の持ち主だったようです。トラブルの時に共感してもらえないのは、ちょっとイラッとくるので、慣れるまでしばらくかかりました。
無条件に飄々としている彼らですが、しばらくして彼らは自己の価値を高い低いと評価して落ち込む代わりに、自分の命の使い道を責任持って選ぶという強い意志を持っていることが分かってきました。仏教といえば、ありのままとか、意味付けしないとか、こだわらないというイメージが定着しているので、「強い意志」という表現は一見相反するもののように感じられるかもしれません。ですがブッダ・ダンマの大前提は、自分自身や現象世界が自分の選択によって作られていくという「縁起」です。自分の選択をいい加減にしてしまうということは、自分だけでなくあらゆる命をいい加減に扱うことになってしまうのです。
お寺の本堂にしれっと馴染んでリラックスしてる犬。
■いいかげんな選択のせいで、命に嫌われている。
十二縁起に無明(アヴィッジャ)から現象(有:バーヴァ)が出現し、固有の生き物が生まれる(生:ジャティ)という一連のプロセスがあります【*1】そのプロセスを繰り返すことで、わたしたちは自ら「自分」という個を発達させてきた、と仏教では考えます。このロジックから、世界は一瞬一瞬がユニークで、オリジナリティに溢れた花火大会のようなものだと捉えます。「無我だから自分なんてないんだ!」と極論にひとっ飛びしても、なかなか「自分」から解放されることはありません。丁寧に「自分」というユニークな現象を理解していくことで、無我にたどり着くことができると考えるのです。天上天下唯我独尊なのはお釈迦様だけに限ったことではなく、すべての生き物に当てはまることで、わたしたちは唯一無二の瞬間を長い時間積み重ねたことからできあがった、唯一無二の存在です。
ですが、困ったことに日ごろのわたしたちは、自分で自分や世界を発達させているという自覚があまりありません。なんとなく繰り返している反応をほったらかして、ぼーっとしている間に自分も世界も勝手に進化してるというのが現状です。ほったらかしているから、世界は知らない間に積乱雲のように発達します。自覚がないので、雨が降ったり、嵐になったり、日照りが続いても、それは自分と関係なくただそんな天気なんだという気がしています。そんな気がしているので、わたしたちにはまるで選択肢がないかのように感じられるのです。
本当は流されて過ぎ去った瞬間も、今この瞬間も自分の選択のはずなのに、放置したことを忘れているので「こんなはずじゃなかった!」という気持ちが湧いてくるのです。そして自分のことが嫌いになって、世界のことが面倒になって、生きていることが嫌になってしまいます。最近ではさらにこじれて「命に嫌われている」【*2】というよくわからない表現に共感せずにはいられないという、わたしたちが共有しているタイムラインはいびつな状態です。
わたしが現在師事している先生に最初に聞かれたことは、瞑想や仏教についての知識や経験ではなく「君は今回の命、何に使いたいの?」ということでした。わたしは聞かれても即答できず、言葉に詰まってしまいました。「何に興味があるの?」だとか「何が好きなの?」という質問だったら答えられていたと思います。ですが、人生の使い道を選べ! と言われても、それまで悠久の時をぼーっと過ごして来てしまったわたしにそんな強い意志はなく、思ったように選べなかったのです。当時のわたしはブッダの思想を外から見ていて、「何でもいいよ」というクールなフリースタイルのように捉えていました。ですがこの時、実際にクールであるということは、そんなに甘くないんだと思い知ったのです。
■仏教にもともとセルフコンパッションはない
昨今ではマインドフルネスと同じくらい「セルフコンパッション」という言葉を耳にします。「セルフコンパッションとは」と検索すると、「仏教に由来し、どんな状況においてもありのままの自分を受け入れること」のようなことがだいたい書いてあります。ですが、このセルフコンパッションという言葉、もともと仏教にはありませんよね? パーリ語でも見たことないです。勝手にパーリ逆翻訳するとアッタメッタ? サンスクリット語だとアトマミットラ(笑)でしょうか。ここで言うセルフはソウル(魂)のことなので、なんだかソウルメイトみたいですね。意味的には「自分と友達になる」みたいな感じでしょうか。
仏教ではノンセルフ(無我)が基軸にあるので、セルフコンパッションという発想はありません。ですが仏教国生まれの呑気で奔放な人びとは、前述の通り自己肯定感が高い人が多く、自分のことが大好きです。なぜかというと、彼らは慈悲のコンセプトにおいて、わざわざ自分をハブるというようなことをしないからです。なのでセルフもそうでないものも一緒くたになっていて、そこにあるのはただのコンパッションだけです。一方で現代人寄りのわたしたちは自分をハブるという、すごくこじれたことをしているようです。
わたし自身も長い間こじらせ系人類だったことに変わりありません。今でも多少そういう気配はあると思います。ですから自分をハブるという、ひねくれ根性は決して他人ごとではありません。こじらせ全盛期は、まさか無我がセルフコンパッションの原点だなんて思ってもみませんでした。自分をハブっていた頃のわたしは、むしろ無我という大義名分のもと、自分は後回し、エゴを捨ててみんなのためにがんばらなきゃダメ! という意味不明な使命感に満ち溢れていました。今思えば、すごく軽率な無我の使い方だったと思います。こうして自分を習慣的にハブってしまうと、自分だけが分離したいびつな縁起のフォーマットができあがり、自分がこじれてしまうのは当然です。
三相(無常・苦・無我)の一つである諸法無我(Sabbe dhamma anatta)というコードは包括的で、反対にひとつでも包括することを忘れてしまうと、こじれたフォーマットを再生します。自分を包括することを忘れてしまう以外にも、体と意識を別ものだと考えて体をないがしろにしたり、物質と意識を別モノだと考えて物を大切に扱わなかったり、ちょっとした忘れものがあると浄土総崩れという構造になっています。ですが現代のわたしたちは、きらびやかで刺激的な物事に心を奪われうっとりしている間に、うっかり体だったり、心だったり自分の一部をどこかに置き去りにしてきがちです。忘我という言葉は仏教語らしいですけれど、この忘れ物としての忘我にはアウェアネスが伴っていないので、ひとまずどこかに置き忘れてしまった自分を回収しに行かなければなりません。回収作業がセルフコンパッションで、全体の中に帰す作業がコンパッションというところでしょうか。
手放すと無我が見えてくる、というお寺のポスター
■自分を野生動物のように保護して、自然に帰す。
置き忘れた自分を回収したらそれで終わりではなく、回収したあとは、セルフもそうでないものも一緒くたにするために、全体の中へ帰していきます。全体の中へ帰すと言っても、ただポイッと全体に投げ入れることはできません。野生動物を保護して、リハビリして、また自然に帰すように、大切に丁寧に、慣らしながら帰していきます。そうして全体の中へ帰すプロセスの中で、だんだんセルフが溶けて、ただのコンパッションになっていきます。
全体の中に自分を帰すリハビリを、仏教のプラクティスとして考えてみると、それは菩薩の実践項目として挙げられる波羅蜜(パーラミー)において展開されます。みなさん般若心経でご存じの波羅蜜(パーラミー)とは、「完成」と言う意味で、現象世界という茶番から完全に目が醒めることを指しています。その一番はじめに出てくるのは大乗の六波羅蜜であっても上座部の十のパーラミーであってもダーナ(布施)です。このダーナ(布施)は、こじらせマインドで行うと、自分を捨てて他に与えて疲弊するというアブナイ行為です。それだと茶番が終焉するどころか、転げ回って何度もスタートへ戻らなければならない「終わらないすごろく」みたいなものです。残念ながら、とにかく差し出せばゴールに到達するという風にはできていません。
自分自身を親のいない野生動物の赤ちゃんだと考えてみてください。保護してご飯を食べさせて、元気になったからと言って、いきなり元来た森に放り出したりしません。ある程度大きくなるまで育てて、自立できるようになってから、少しづつ森の中へ帰していくのがスタンダードだと思います。ダーナ(布施)もそれと同じで、自分を大切に育てながら、徐々に差し出すことに慣らしていきます。慣れてくると森に住む動物が森の一部であるように自分が全体の一部となり、差し出すという感覚が失われていきます。
ダーナ(布施)には、ただ良いことをして徳を積むという意図だけでなく、差し出すことによって、全体の中に自分を放つことで無我を体現していく目的があります。むしろただ良いことをしよう、良い人であろうとするだけでは、心がパーラミー(波羅蜜)に向かうという道すじから逸脱してしまうこともあります。こじらせさんが安易に自分を捨ててダーナ(布施)に励むと、本当はこんなはずじゃなかったとか、せっかく差し出したのにとか、貧しい気持ちになってしまいます。そこから怒りや悲しみなど心がさまざまな方向に暴走し、せっかくのダーナ(布施)も台無しになってしまうのです。
それでは次回は、ダーナ(布施)で養われる感覚について、具体的な例や体験談を紹介しながらもう少し掘り下げてみたいと思います。次回、ダーナ(布施)が養う感覚について、掘り下げてみたいと思います。
(つづく)
*1──十二縁起:無明、行、識、名色、六処、蝕、受、渇愛、取、有、生、老死愁悲苦憂悩。
*2──2017年に「命に嫌われている。」というボカロ曲が発表され、2021年に話題となり年末のNHK紅白歌合戦でも歌われた。
第2回 自然の中へ自分を放つプラクティス