アルボムッレ・スマナサーラ


新型コロナウイルスの出現による様々な困難に、2600年前から続く仏教は、どのような思考で向き合うのか?   私たちがこれからの時代を幸福に生きるために必要なお釈迦様の智慧をスマナサーラ長老にお尋ねした。  

第5回    生きる価値ってなんですか

編集部    コロナ禍の窮屈な日々による不寛容な精神は、弱者への差別へもつながっているように思います。コロナ前ですが障害者を19人も殺害した事件が起こったり、生活保護受給者やホームレスに対しての差別意識も高まってきています。利己的な理由や生産性で命の重さを量るような思想は、どうして生まれてきてしまうのでしょうか。

■生命として生きることに向き合う

「障害者はいなくていい」などという差別意識を持っている人は、恐ろしい病気に罹(かか)っているのですね。「生産性がないからいないほうがいい」と言う場合、人間のことを何かの物を作ってお金を儲けるロボットだと思っているんですね。生産性がある/ないというのはそういう意味でしょう。そのような主張をする人は、障害者の命だけではなくて、人類全体の命を軽視しているのです。人類はロボットであって、プログラム通りに物を作っているならば健常者で、ロボットとして正常に機能しない者は障害者と考えるというのは、勘違いもいいところです。
     犬であろうが猫であろうが、カラスであろうがカエルであろうが、ゴキブリであろうが、生まれたならば、生きたいのです。だから、みんな死ぬまでなんとかして生きている。しかし人間は、そういう生命すべての願いにも気づかないのですね。どん底まで不健康な心に陥ってしまっているのです。人間は他の生命を心配する、健康な心を持つべきなのです。
     若者がよくする質問ですが、素直に「何のために生きているのか」と自分に問いを投げかけてみれば、ほとんど誰もが虚しさを感じると思いますよ。朝、起きてごはんを食べて、会社に行って仕事をして、戻って飲み屋さんに寄って、酔っ払って帰宅したら、お風呂に入って寝て、また朝起きて……。しかも会社で何をやっているかというと、最新鋭の宇宙船を作っているわけでもないし、それほど重大な仕事を任されているわけでもない。そもそも人類の向いている方向が違っているんですね。経済成長、高層ビル、高速の乗り物、インターネットのゲーム……そちらに価値があると思っていますから、人間というよりは“人間ロボット”でしょう。人間に限らずすべての生命体にとって一番シンプルな事実は、皆「生きたい」と思っていることです。しかし、よく見てください。いくら生きたいと思っていても、すべての生命は死ぬのです。だったら、せめて寿命がくるまでのあいだ、なぜ生かしてあげないのでしょうか。