玄侑宗久(僧侶・作家)


新型コロナウイルスの感染拡大によって、経験したことのない困難に直面した私たちは、これからどのように社会を築いていけばよいのか──。僧侶で作家の玄侑宗久師から話をうかがうために、玄侑師が住職を務める福島県三春町の福聚寺を訪ねた。


第5回    両行と直観の日本人


編集部    最近は少なくなってきましたが、10~20年前は自己啓発ブームがありました。結局それも「自分の市場価値を高める」というフレーズに背中を押されながら、消費社会の中に自分を投じていくような行為だったと思います。その背景には、西洋近代的な「私」という概念がありました。自分のアイデンティティを「私」という形で囲って利益を求めるのが今までの資本主義だったとしたら、最近は「それはおかしいんじゃないか」と感じ始めている人が増えてきているように思いますが、いかがでしょうか?


■捨身飼虎はウソ

玄侑    再三、ここで言っているSDGsなどの動きを見ていると、もちろんSDGsが仏教とソリが合いにくい部分も多少あるとは思いますが、でも、やっぱり世の中全体が仏教的な方向に進んできている気はします。だからパートナーシップを大事にしようという方向だし、私だけが幸せになるというのはあり得ないとみんなが思い始めたんだと思います。
    ただし、自利・利他というところまではいいですが、バランスは大事ですよね。捨身飼虎、いわゆる自己犠牲みたいなところにいってしまうと、行き過ぎだと思います。
    私は、捨身飼虎の話はでっちあげだと思っているんです。きっとウサギは間違って落ちた。そうでなければ、トラにウサギの味を覚えさせるわけですからウサギの仲間にとっても危機は増えるわけでしょう。我が身を捨てて飢えているトラに身を投げるなんてことはしてはいけないと思います。だからウサギは間違って落ちた。だけれども間違って落ちたと言っては死んだウサギが浮かばれないので、そういう話を作ったんだと思います。
    やっぱり完全に自己犠牲というのは、受けるほうもしんどいです。財産をなげうって助けてくれたとしたら、ありがたいかもしれませんが、財産をなげうったあと、彼は乞食をしていると言われたらこっちも辛すぎますよね。