国府田 淳
(クリエイティブカンパニーRIDE Inc.Founder&Co-CEO、4P's JAPAN Inc. CEO [Pizza 4P's Tokyo@麻布台ヒルズ])

気候変動、戦争、格差、パンデミック、ストレスや精神疾患の増加など不確実性が高まり、心安らがない状況が続く昨今。外的な要因に振り回されずに地に足をつけて生きたい、今後のビジネスや生活を支える羅針盤を手に入れたいと考えている方は多いと推察されます。
そんな時代だからこそ、原始仏教がますます有用になるのではないでしょうか。私は日々のビジネスシーンや生活の中で、それを実感しています。
本連載は原始仏教とビジネスの親和性を描くことで、心のモヤモヤや不安を和らげる糸口を見つけてもらおうという試みです。

第4回    原始仏教の到達点「悟り」とそれに至る「瞑想」の重要性②


3    「悟り」を日常に活かすためのメカニズム

    普通に生活していると完全な「悟り」の境地に至るのは難しいにしても、「悟り」の感覚を少しでも知覚することができれば、生活の中で苦への対処を行い、コンパッションを醸成する手助けになるでしょう。その感覚を掴む一助として、自我がどのように生まれるのかについて、原始仏教をベースに自分なりの見解も少し含んだ考えをシェアさせていただきます。まず自我は通常、確固たる絶対的な存在と思いがちですが、実はさまざまなものの集合体、連続体と捉えるということが仏教の基本的な考えです。これを自性・仮和合・自己表象・仮想的自己などといいます。

    世界にはさまざまな事象が漂っています。これらは自然由来のものもあれば、人間が歴史的な経験から生み出み出してきた人工的なものもあり、どちらかというと後者が一般的な世界を形作っています。人工物は往々にして欲望や渇愛をベースとし、絶対的に存在していると思い込んでいる自我と結びつきながら、我々は日々生活しています。そのため、自他を区別して比較したり、その違いに憂いたり、認識の違いを生み出したりと、さまざまな苦しみが生じています。

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    原始仏教では、五蘊(色=身体、受=知覚、想=表象、行=意志、識=認識)の総体が自我であり、絶対的に存在する自我はないとしています。五蘊と事象、それを取り巻く環境が一緒くたになって、心や認識が連続して生じては消え、ということを繰り返しています。その連続体が自性・仮和合・自己表象・仮想的自己を形成していると考えることができます。

    これを基本的なメカニズムと仮定した場合、それとはまったく違うメカニズムを成立させることができる手段の一つとして、原始仏教の教えと瞑想があります。原始仏教の縁起、四聖諦、八正道を理解していれば、世俗的な事象と結合しようという働きは弱まりますし、さらに瞑想により五蘊を働かせないようにするので、両者の結合が機能しなくなります。特にリトリートで瞑想する場合は、サイレントで刺激のない状況を作るので、環境の影響を極端に減らすことができます。つまり、世俗的な事象との繋がりを断ち、五蘊を通した心や認識もなくなる、すなわち無我の状態となり、何もないということを理解する=智慧が生じます。またその状況下では、絶対的な存在と思い込んでいる自我という認識もなくなるので、自他を分け隔てないコンパッションが生じます。下記がその流れを図解化したものです。左側が一般的な世俗の世界で、真ん中は原始仏教に触れて調った世界(原始仏教×ビジネスはここに相当)、右側は出家して悟りに達した状態(本来の私たちの成り立ち)を示しています。

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    ここで問題となってくるのは、無我、無常=智慧やコンパッションを認識できるのか、ということです。これは瞑想をやっている方であれば経験されている方も多いと思いますが、瞑想が深まっていくと五蘊の働きは停止していますが、普段は感じることのない体の奥底から滲み出てくるような非常に微細な感覚、少しビリビリと手足が痺れるような感覚が体に生じます。瞑想を始めた頃はまったく感じることができず、「本当にそんなふうになるのかな?」と懐疑的でしたが、続けていくうちに徐々にわかるようになりました。

    また呼吸の瞑想をしながらすべての感覚を遮断していくと、ただかすかに呼吸しているだけの状態になりますが、その最後の最後にただ呼吸しているだけという状態に気づいている意識のようなものは残ります。そのような通常の感覚とは違う微細な感覚やただ純粋に気づいている意識のようなものと、空=智慧、コンパッションが結合して生まれる連続体が、「悟り」の状態の自性・仮和合を生み出すのではないかと私は考えています。

    このメカニズムを、一般的な世界と「悟り」をベースとした出家の世界とで比較したのが、下記です。縦軸の上に行くと「苦」が増殖し、下に行くと「コンパッション」が増幅します。横軸は便宜上、時間軸とさせてもらいます(“今”が連続して世界が成り立っているだけで、連続した時間の流れはないという考えもあります)。

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    一般的な世界で、世俗的な事象と五蘊、環境から生じる自性・仮和合でずっと過ごしていくと(A=世俗的に生きる)、程度の差はあれ「苦」が増殖していく傾向があります。「悟り」の境地でずっといると(C=出家して悟りの道を生きる)、「苦」は増殖せずに「コンパッション」がMAXレベルを維持できます。私たちが目指したいのは、真ん中の世俗的な世界と、「悟り」をベースとした出家の世界を行ったり来たりする世界(B=原始仏教的な世界観で生きる)です。一般的に私たちは(A=世俗)の世界を生きていきますが、原始仏教の縁起、四聖諦、八正道に触れたり、瞑想を実践して「悟り」の一片を感じたりすることで、「苦」を減らして「コンパッション」を増幅させながら、真ん中の道をジグザグしながら進んでいくイメージです。

    Bの領域で生きていくことができれば、自分はさまざまなものと関係性の中で成り立っているという縁起・無我の感覚を身につけ、煩悩や渇愛に捉われない状態を味わい、在りのままの今の状態を見つめながら偏らない独自の判断や視点が養え、コンパッションをもとに人や社会、地球と接することができるのではないかと考えています。


4    自然の中で瞑想することで「悟り」の効果が上がる

    先ほど「欲望や渇愛をベースとした世俗的な生活が一般的だ」と述べましたが、自然の中で自然由来の純粋な事象に囲まれた場合はどうなるのでしょうか。そもそもブッダが悟りを開いたのも、森の菩提樹の木の下で7日間瞑想をした後だったという話もあります。

    以前、瞑想研究者の藤野正寛氏らが主宰する「研究者のための瞑想リトリート〜自然の静けさの中で自分を見つめる体験から学ぶ〜」に参加した際、埼玉県秩父市の大陽寺という山々に囲まれた自然豊かな場所で1日中、瞑想をしました。一般的なリトリートは、外界の刺激を最小限にとどめるため、一つの大きな部屋にみんなで集まって行います。普段家で瞑想する時は部屋の中ですし、たまにハイクの途中や海などでも行いますが、歩行者なども気になって長時間瞑想をするには至りません。ですので、自然の中で思い切り瞑想したことはとても新鮮な感覚でした。

    その際、「自然の中で自分が瞑想する」というより、「自然の中にお邪魔してただ坐らせていただく」という感覚を強く感じました。さらに瞑想を深めていくと、「自分も自然の一部として、ただ存在させてもらっている」という感じになり、自然と一体となっていく感覚を養いました。普段、「自然はいい」「自然を大切に」というようなことを言ったり書いたりしていますが、それには自然と自分や人間を分けて考えているニュアンスが含まれます。山や海などに遊びに行く際も、アクティビティとしての自然という捉え方をしてしまっている。そもそも今の日本のスタンダードとなっている西洋的な考え方では、人間と自然は別物で、自然は人間が何とかするものという考えです。もともと日本はアニミズムを中心とした世界観のもと、人間は自然の一部であるという前提で暮らしてきた歴史があります。自然の中で瞑想することにより、その感覚が呼び覚まされ、自分も自然の一部であり、数ある存在の中であるパートを生かしてもらっているという感覚を身体レベルで感じることができるのです。そうなると、世の中は縁起、無我、思い通りにならない苦で成り立っていることを感じられますし、コンパッションは自ずと湧き上がってきます。そしてこのような感覚は、昨今の地球環境に配慮したビジネス、気候変動への対処、SDGsやサーキュラーエコノミーの実践に直結するので、大いに活かすことができるでしょう。



(第5回に続く)

第3回    原始仏教の到達点「悟り」とそれに至る「瞑想」の重要性①