アルボムッレ・スマナサーラ

【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「幸せ」です。

[Q]

    よく「幸せでありますように」と言いますが、幸せの定義がよくわからないので教えていただけないでしょうか?

[A]

■「幸せ」という言葉は曖昧すぎる

    一般的に「幸せ」ということは、人それぞれ対照的で意味が変わります。私たちは苦しんでいます。全ての生命に「満たされていない」という根本的な問題があるのです。満たされていないからこそ皆が幸せを探しているのです。なんとかして幸せになろうと努力しています。探しているにもかかわらず、必要なものが得られない。それで更に苦しんでいます。普遍的な「幸せ」の意味は、「満たされている」ということになります。しかし、生きるという中では完全に満たされるということは成り立ちません。あれが欲しいこれが欲しいという希望がある場合は苦しむことになります。「あのようになりたい」と羨望の思いがある場合もずっと苦しみがあることになります。どちらにしても満たされていないということです。
    たとえばお金が無い人は、満たされていないのでずっと「お金が欲しい」と苦しむのです。そこで宝くじが当たるなどの臨時収入があったりすると幸せだと感じます。他にも、手に入りにくい希少なものを食べたいと思う人がいて、それが手に入る方法や手段を得たとします。今はネットで買えて発送もしてくれますね。そのように望んだものが定期的に手に入ると幸せを感じるのです。しかしこのような物質を手に入れるだけのことでは、幸せを定義することはできません。

■幸せが欲しければ 不満が必要

    ですから、まず満たされていないという状態であることが前提で、それからある程度それが満たされるようになった状態から生まれる気持ちが「幸せ」というものなのです。少しでも満たされる状態が無ければ、生命・生きることは地獄(極端な苦しみ)でしょう。地獄というのは、その側面からみれば、〝満たされない〟という気持ちが加速度的に強烈になっていく次元なのです。同時に満たされる手段が極限に少ないということでもあります。それが地獄です。極限的に「欲しい」のですが、絶対に欲しいものが手に入らない。その手段さえ無い状態です。それでも生命は業のエネルギーによって、それぞれの次元で生き延びてしまうという法則なのです。

■人間の世界は 満たされない状況をある程度解消できる次元

    仏教では天界と人間界を同じ次元として扱っています。なぜなら〝満たされていない〟という状態は同じですが、それなりに満たす手段があるからです。神々のいる天界と人間界は同様な次元であって、いくらか必要なものを手にすることができる恵まれた次元(善趣)だと言っています。どれぐらい手に入り満たされるのか、どれぐらい満たされるために苦労する必要があるのか、そのレベルについては人間によってそれぞれ差があります。満たされていないことは、皆に共通しています。しかし、ある人はお金をとても簡単に手に入れることができる。服が一着あればいいのに、五十着も買える人がいる。どこかに行く時車が一台あれば自分にとっては充分ですが、しかし家に車が十台ある人もいる。その人に「あなたは幸せですか?」と聞いたなら、当然幸せだと答えるでしょう。もしそれでも幸せではないと答えたら、それは他に満たされていないことがあるという意味になります。実は家庭不和とか、厄介な持病を持っているとか、何かしら満たされないことがあると不幸だというのです。

■幸不幸は他人にはわからないけれど 誰もが満たされていないのは事実

    もう少し考えてみましょう。たとえば英国王室や日本の皇室に生まれれば幸せでしょうか?    それはわかりません。一般人が外から見ただけでは表面的なことしかわからないのです。休日に仲間たちと海で泳いだり、スポーツをしたりと気軽に遊びたいとします。資金は充分にあります。しかし、王室の決まりとして公でそのようなことをやってはいけません。それから、夫婦であっても公の場では手をつないではいけません。欧米ならカップルがどこでもハグやキスをしたりしていますが、英国王室では公の場で愛情表現することは禁止だそうです。人は互いに抱き締め合って(ハグして)喜びを表現することがあります。たとえばスポーツの大会などで自国の選手が活躍すると観客同士で抱き合ってワイワイと喜ぶことがあるでしょう。王族はそういうこともできません。しかし、中身は普通の人間なのでそういう気持ちになったらどうしますか?    恐らく感情を抑圧されて苦しいでしょう。ですから、王室に生まれたとしても幸せなのか不幸なのかはわからないのです。

■全ての存在は満たされない それが生きること

    「幸せ」の定義についてはそんなものです。生命は、人間であろうが神々であろうが動物であろうが微生物であろうが、皆満たされていません。満たされていない状態から、何かを得ていくらか満たされた状態になると幸せを感じます。生命にとって満たされていない状態を完全に満たすということはできませんが、それなりに満たされたと感じる状態の方が良いのです。そういうことで、仏教では他者に対して「幸せでありますように」という言葉を使って、その気持ちを表現しているのです。全ての幸福は相対的・対照的で絶対的なものではありません。カラスがネズミの死骸を見つけたら幸福になります。人間がネズミの死骸を見つけたら不幸に感じるでしょう?

■一切が不完全であり、壊れ続けている

    幸福を定義する場合は〝生命は常に満たされていない状態で生きている〟という事実を理解しなければいけません。そして生命は、ある程度満たされて欲しいと期待しています。満たされないと命自体が壊れてしまいます。人間には栄養が必要ですね。身体も心も栄養無しに働き維持することはできません。単純なのです。栄養が一切入ってこなければどうなりますか?    直ちに死んでしまいます。命が成り立たないのです。生命にはまず〝満たされていない状態〟があり、常に満たされたいと願って生きています。百パーセントではないにせよ、多少のものを得たところで「満たされた」と感じます。俗世間では、その状態を幸せ・幸福と呼んでいるのだと定義することができます。

■「満たされない」原因を根こそぎ取り除く

    しかし、仏教の出世間的な「幸せ」の定義は別にあります。仏教では「満たされない」という気持ちを失くしてしまうことが幸せ・幸福だと教えているのです。満たされないというのは「渇愛」のことです。渇愛を失くせば全ての問題が終わります。渇愛を失くすことが究極の幸福であるとお釈迦様は説かれたのです。出世間では渇愛を失くすことが幸福で、俗世間では渇愛がある程度まで満たされることが幸福なのです。それは相対的な幸福です。


■出典    『それならブッダにきいてみよう: こころ編5』