アルボムッレ・スマナサーラ(テーラワーダ仏教(上座仏教)長老)
Suttanipātapāḷi 5. Pārāyanavaggo 10. Kappamāṇavapucchā
※偈の番号はPTS版に準ずる。( )内はミャンマー第六結集版の番号
一流の学究者16人と、智慧の完成者たるブッダの対話によって導かれた真理を、スマナサーラ長老が現代的に解説していくシリーズ。今回は10人目となるカッパ仙人とお釈迦様の対話をお届けします。全5回の第3回。
第3回:命の真理を知って、悪魔に打ち克つ
■ブッダの答え3 気づきで悪魔(概念)から自由になる
1095(1101).
‘‘Etadaññāya ye satā, diṭṭhadhammābhinibbutā;
Na te māravasānugā, na te mārassa paddhagū’’ti [paṭṭhagūti (syā. ka.)].
〔参考訳〕
このことをよく知って、よく気をつけ、現世において全く煩いを離れた人々は、悪魔に伏せられない。かれらは悪魔の従者とはならない。」
●そもそも“悪魔”とはなにか
悪魔māra(マーラ)という概念は、インドでみんなが使っていた文学的・宗教的な表現なので、お釈迦様もどうしても使わざるを得なかったのです。なぜならば、宗教家はいろいろな言葉・概念を作って、それをもとに議論していたからです。たとえば「マーラ・悪魔がいる」という概念を作る。概念を作ってしまったら「悪魔を退治しなくてはいけない」という概念が次に出てくるでしょう。次に「どうやって悪魔を退治しようか」という、また別の問題が出てくる。もし最初に、「人間が堕落しているのは悪魔がいるからだ」と決めてしまえば、その決めたことから新たな概念が次から次へと生まれてくる。まずは悪魔を退治しなくてはいけない。そこで、退治する方法について膨大な議論が起こるし、もし人間に退治できない場合は神に頼むことになりますから、その手続きや方法についてもまた議論が紛糾する。そうやって次々と宗教・宗派が分かれていくのです。人間が一つでも概念を妄想したら、そこからは大変です。「生老病死が嫌なので、なんとかしてください」というのが宗教の世界になっています。そこで、「人間が苦しめられるのは悪魔の仕業だ」という概念が現れる。当然、「では、悪魔を徹底的に退治するぞ」となるのです。実際のところ、悪魔が登場しない宗教はないぐらいです。
そういうわけで、仏教でもその単語を使わなくてはいけなくなったのです。「これをやってください。そうすればあなたはもう悪魔に凌駕されませんよ、あなたは勝利者になるのだよ」と、マーラ・悪魔に屈服させられない、悪魔に対しての勝利を得る方法を強調するのです。だからといって、「仏教的にも悪魔がいる」という話ではないのです。ブッダの真理は、そんな低次元の世界ではありません。お釈迦様は超エリートの智慧の人であって、超越した理性の人でした。それでも、人々と対話するためには、世界にある文化的な宗教の用語を使わなくてはいけない。それは一般人の妄想を認めているからではなくて、その人々がある概念を前提にして悩んでいるから、その概念に沿って答えを出してあげるのです。
だから、悪魔退治について困っている愚か者たちがいるならば、ブッダが「こうしなさい。これが悪魔退治だ」と言わなくてはいけない。その言葉を使わなくては、悪魔に悩む人々には聞き入れられないのです。俗世間には社会システムの一部になっていて、文化と歴史を備えた宗教組織があります。宗教組織が用いる言葉が一般文化に入り込んで、それを前提にしてみんなが問題を考えるということになっているのです。
たとえば、キリスト教文化の世界では「原罪(original sin)」、人間はもともと罪人だという概念があるでしょう。そこから、西洋の文化を組み立てているのです。だから彼ら西洋人に語る場合は、私なら「人間には原罪がある」というところから話を始めます。そうすると「ああ、そうですか」とすんなり聴いてくれる。それで、なぜあなた方は原罪があると知っているのかと、『旧約聖書』にある「創世記」のストーリーの矛盾を指摘していくのです。そのうえで、「原罪というならば、本当はこういうことではないか?」と、仏教のアイデアを相手に語ることもできるようになる。ここでお釈迦様が言っているのも同じことです。人々は「生きていきたい」「命が大事だ」「永遠の命をくれ」と叫んでいるのです。しかし、それをあげたら「これだけは絶対に嫌だ」と拒否する。「なぜ?」「老衰と死だけは絶対に嫌で。でも永遠の命をくれ」と。そこで、その人々に教えてあげるのです。「卵とは白味と黄味だよ。だからいい加減、食べるか諦めるか、どちらかに決めなさい」と。人々は、「命とは生老病死である」ということを発見しないで、いきなり妄想概念に飛びついて、「永遠の命」とか「永遠の魂」とかいう概念を作ってしまう。それをありがたがって、それからその妄想概念についていくらでも語る。原罪と言えるものがあるとすれば、それなのです。
そういうわけで、真理を語る場合に、仏教では必ずほかの宗教、ほかの文化などで使っている概念を使わなくてはいけない。そこまで、お釈迦様は考えていたのです。だから、なんのことなく「悪魔には伏せられませんよ」と言ったのです。もう悪魔には、この人をどうすることもできない。だって執着がないのだから。老衰も死も、ぜんぜん畏(おそ)れません。
「明日、あなたは死ぬかもしれませんよ」
「どうして知っているの?」
「私があなたのホロスコープを計算したところ、あなたの寿命は今日で終わりです」
「あ、そう? よかったね」
それで終わり。「もしあなたが計算を間違えていて私が明日も生きていたら、あなたどうする?」とか、この人を責める可能性はありますけどね。そんな場合でも、「ああ大変だ、先生なんとか助けてください」と狼狽することはないのです。「もう一度、計算してみてください。もしかすると間違っているかもしれません」とうろたえることもありません。私なら百万円ぐらい賭けますね。「もし私が明日、死ななかったら百万円くれ」と。向こうは「あなた、明日死ぬのだから賭けで負けますよ」と言われたら、「じゃあ、友だちに頼んでおきます」と言ってね。そういうことだから、命とは老衰と死であるということを発見したら、もう悪魔に伏せられることはないのです。
●命とは老衰と死のこと
Na te mārassa paddhagū(ナ テー マーラッサ パッダグー)、「かれらは悪魔の従者とはならない」。Paddhagū(パッダグー)の本当の意味は、“従者”ではないと思います。Paddhagūとは野党側のことです。つまり、「悪魔退治党」です。宗教はみんなそうでしょう。宗教は反悪魔党として、ずっと悪魔と戦ってきたのです。どんな神父さんでもどんなキリスト教の信徒さんでも、悪魔と戦わなくてはいけない。だから、mārassa paddhagūというのは悪魔政権の野党ですね。しかし、悪魔政権はかなり強力で狡猾な政権だから、野党側はいつもボロボロにやられているのです。Na te mārassa paddhagūとは、「野党をやめたので、悪魔から攻撃を受ける理由がなくなってしまう」ということです。ここは、わかりにくくて訳しにくいところだと思います。悪魔の従者といっても、たとえばヤクザ組織に所属している人々は、ヤクザが怖いと思わないでしょう。親分やアニキたちがぜんぶ面倒をみてくれるのだから。鉄砲玉としてひどいことをやらされるかもしれませんが、それでも、それなりに、わが子のように心配して助けてくれたりするでしょう。ヤクザを怖がるのは一般人なのです。ここで言っているのは、要するにanti Satan movement、悪魔反対運動、悪魔反対組織から解放されて自由になった、ということです。逆に、悪魔にもこの人に触れることはできないのです。
●大切なのは、気づきを身につけること
まだ説明していなかった1行目にいきます。Etadaññāya(エータダンニャーヤ)、「このことをよく知って」。このポイントをいわゆる卵のたとえで理解してください。老衰と死は命である。だから命というのは妄想概念で老・死なのです。老衰・死。それを知って、それにsati気づきをもっている。いつでも気づきが必要です。これは、妄想が一切ないという意味です。妄想を作ることは危険なのです。もしも妄想を作りたくなければ、気づきで生きていなくてはいけません。だから、悟った人にとって気づきというのは呼吸と同じく自然なのです。悟っていない人にとっては、これが修行になってしまうのです。だからつねに気づきがある人は、頭が冴えていますよ。あれこれの思考で頭を悩ませていないのです。その場その場で考えるだけ。もし、妄想する必要があったらその場その場でサッサッと妄想する。私にしたって、妄想する力がなかったら先ほどのラーメン屋の話やら卵の話やら出てこないでしょうに。私は一応、仏教の真理として老・死のことを知っていますけど、皆様の妄想世界になにか似ているものがないのかと妄想したところで、卵のたとえを見つけたのです。たとえを見つけるためには、膨大なデータの中から「二つのものでできていて完璧なもの」を探さなくてはいけませんから。
今回の説法でも、けっこういろいろ妄想を使いました。でも、ひとつも無駄な妄想はなかったでしょう。結果として役に立つように使っているのです。気づきの訓練があれば、そういう能力が身についてきます。そこでetadaññāyaこの事実(facts)を知って、sadā satā(サダー サター)つねに気づきある人格になる。そういうわけで「私はヴィパッサナー瞑想をやっていますよ」という人々は、残念ながらこのグループに入りません。「まだあなたはやっているの? では、頑張ってください」と言わなくてはいけない。合格した人は、もう気づきが自然な状態になっているのです。
(第4回につづく)
2017年11月10日 ゴータミー精舎での法話をもとに書き下ろし
構成 佐藤哲朗
第2回:生きる悩みから解放される唯一の境地
第4回:質疑応答①仏教の「老」の定義
お知らせアルボムッレ・スマナサーラ[著]
『スッタニパータ 第五章「彼岸道品」』
紙書籍のご紹介
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今後の続刊に収録する法話を、『WEBサンガジャパン』で連載していきます。
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智慧の完成者たるブッダの対話によって導かれた真理を、
鮮やかな現代日本語でわかりやすく解説する。
第一巻
Ⅰ アジタ仙人の問い
Ⅱ ティッサ・メッテイヤ仙人の問い
Ⅲ プンナカ仙人の問い
Ⅳ メッタグー仙人の問い
第二巻
Ⅴ ドータカ仙人の問い
Ⅵ ウパシーヴァ仙人の問い
Ⅶ ナンダ仙人の問い
Ⅷ ヘーマカ仙人の問い
【以下、第三巻以降に収録予定】
Ⅸ トーデイヤ仙人の問い
Ⅹ カッパ仙人の問い
Ⅺ ジャトゥカンニン仙人の問い
Ⅻ バドラーヴダ仙人の問い
XIII ウダヤ仙人の問い
XIV ポーサーラ仙人の問い
XV モーガラージャ仙人の問い
XVI ピンギヤ仙人の問い
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スッタニパータ 第五章「彼岸道品」
第一巻
アジタ仙人の問い/ティッサ・メッテイヤ仙人の問い/
プンナカ仙人の問い/メッタグー仙人の問い
アルボムッレ・スマナサーラ[著]
スッタニパータ 第五章「彼岸道品」
第二巻
ドータカ仙人の問い/ウパシーヴァ仙人の問い/
ナンダ仙人の問い/ヘーマカ仙人の問い
アルボムッレ・スマナサーラ[著]