藤本 晃(誓教寺住職・『ブッダの実践心理学』共著者)
アルボムッレ・スマナサーラ長老『ブッダの実践心理学 アビダンマ講義シリーズ』の共著者である藤本晃先生より、アビダルマを学ぶことで私たちの行動がどのように変容していくかについてご寄稿いただきました。全4回連載の第2回です。
第2回 能動的な学びのすすめ
●聞→思→修は受け身な学び?
長い間なじんできたせいか、私には聞→思→修の流れも間違いとは言い切れないような気がします。しかしこれは、どんな「なじみ」でしょうか。
聞→思→修の流れに「なじみ」を感じるのは、学校教育を受けてきたからのような気がします(お坊さんなら沙弥出家から比丘出家を経て学ぶ僧院での学びのシステムでしょう)。現代日本の私たちは、小さい頃からとりあえず学校に行って、とりあえずどんな科目でもまず教えられ聞かされて、それから「さあ自分でも考えて(思)答えを書いてください」とか、「さあ、実際に走ってください。泳いでください。この楽器を演奏してみてください(修)」などという形で学んできたのではないでしょうか。
こういう学校教育式の学びが学び方の王道とも言えますが、これは受け身の学び方ですよね? 国語が好きなのか算数が好きなのか体育が好きなのか、自分はいったい何をやりたいのかまだ分かっていないのに、あるいは小さい頃からやりたいことは決まっているのにそれにもかかわらず、とにかく学校に行かされ、教室で座らされ、先生が前に出てきて、先生が教えたいものを教えるので、それを聞く。聞いたことを分かっているかどうか先生がテストを出すので、答えを考える。走ったり笛を吹いたりする。こういう形の学び方は、受け身の学び方ではないでしょうか。
学校で学んだことがきっかけになり、それが好きになったら、学校から離れても、本を読んだり、パズルを解いたり、走ったり楽器をいじったり、ずっとしたくなるでしょう。そこから能動的な学びの道が広がります。しかし最初はどうしても、まず先生の話を「聞く」ことから始まりますので、受け身的になるのです。
しかし自分で能動的に何かを求めて聞く場合は、どうでしょうか。
同じく先生の話を「聞く」ことを、学校を離れて自分でやる場合と比べてみましょう。地方自治体や各種団外がいろいろな講演会を町のホールなどで開催しています。講演会のお知らせがいろいろなメディアから耳に入るので、誰がどんな感じの話をするのか、なんとなく想像できたりできなかったりします。それらの講演会にわざわざ行って、わざわざ話を聞くでしょうか。
学校と違って一般の人々は、それらの講演会を聞きに行く義務はありません。そしてたいていの講演会は自分の関心を呼ばないのでわざわざ行きません。それでも何かの講演には興味が湧いて、予定を合わせて、聞きに行きます。聞いて、感動したり、当てが外れてがっかりしたりします。
学校を離れて、町の講演会を聞きに行く場合は、聞く前に、自分が判断「思」して「聞こう」と決断していたのではないでしょうか。
私たちは、学校教育で子供の頃から受けてきた受け身的な、何でもいいからまず聞く、聞いたことについて考える、行動する、という学び方になじみ過ぎているのではないでしょうか。
説一切有部以来の北伝仏教の文献がいつも聞→思→修の順番になっているのは、どうしてでしょうか。彼らの教団が大きくなって、小さな沙弥をたくさんお寺に入門させて、まずはしっかり仏教を教えて、それから修行もしましょうという教育システムが出来上がっていたからかもしれません。
仏教を学ぶと決まっているなら、仏教には生きる道、生きることを乗り越える道、など大事な教えが全部揃っていますから、受け身的に学んでも間違いはないと思います。
しかし、現代日本の私たちが学校教育で受け身的に学ぶときは、少し気をつけた方が良いのではないでしょうか。なにしろ現代日本の学校では、仏教を教えていないのです。他の宗教さえ、教えていません。生きるために役に立つ本物の教えだけは、学校では、いくら待っていても聞くことはできません。
仏教だけでなく、聞いたことについて初めて考える受け身的な学び方では、聞いていないもの、知らないことについて、考えることも行動することもできません。
現代日本では、ただ生きているだけでは、仏教に出会うことはできないようになっています。何か壁にぶつかって解決策を探したり、現状で飽き足りなくなってもっと他に何か面白いものはないかと自分で探したりして、それで仏教を知るか、それでも知らないまま過ぎてしまうかということになっています。
現代日本の私たちは、仏教があると、なんとなく知っています。日本では仏教が流行っていることも、なんとなく実感しています。しかし、仏教とは何か、本当に知っていると言えるでしょうか。なにしろ、知る気がなければ、知りたくならなければ、仏教なんか知らないままで人生を終えられるのです。
受け身な学び方って、けっこう落とし穴がありそうですね。やっぱり、しっかり生きるためには、自分から能動的に道を探した方がいいような気がします。
●思・聞・修は能動的な学び
子供の頃はまだ何も知らないから、まず知るべきことを聞かせてあげましょうということになります。ですから学校に行って学びましょうということは、理が通っていると思います。子供にとってもありがたいことだと思います。
しかし学校が終わってからは、あるいは学校に行ける状況ではなくなったら、自分から能動的に判断して、学ぶべきことを選び取り、やるべきことをやらなければなりません。
何をやればいいのでしょうか。とりあえず生活できるだけの基盤をつくらないといけません。無理なら、行政に頼って生活を保証してもらいます。生存権は当然の権利です。ここでは、生活の基盤ができてからの話をします。
せっかく人間として生きているのですから、どう生きれば人間らしい生き方かということを頭に入れて生きると、より良いと思います。学校を離れてからの生き方を、社会という学校にいると見立てて、しかしもう誰も目の前に来て勝手にいろいろ教えてくれないので、自分から能動的に教わりに行き、学びます。こういう自分から動く場合は、やっぱり聞くより先に「何を聞くべきか」などという自分の判断・思考が働いていると思います。
それどころか、生きることは危険がいっぱいです。道を歩いていても車が突っ込んできたり人が刃物を持って襲ってきたりしたら、「まず避け方を聞いて学びましょう」なんてやっている暇はありません。自分で判断して自分で行動しなければなりません。「生きる」という「学校」では、先生が先に教えてくれるのではなく、自分が先に考えて行動しないと、何も始まりません。
仏教以前に生きることそのものが、朝、起きることから、夜、寝ることまで、すべて自分が判断して自分が決めて自分がやらなければいけないのです。能動的に。自分から。大変ですね。
智慧に至る道を三つ挙げた上座部の経典で思・聞・修の順番になっているのは、そういう万民共通の生き方の順番を示しているのではないかとも考えられます。順番とも決められないのですが、強いて言えば「まず考える。それから必要なことを学ぶ。そして行動する」の順番があるようにも思えます。車に撥ねられそうになったら、「避けなくちゃ」と判断する(思)。「左側が空いてる」と学ぶ(聞)。「えいっ」と跳ぶ(修)。そういう順番が。
●仏法を聞く前に「仏法を聞くぞ」と選び取っている
日本の学校では教えてもらえない仏法を聞き学ぶ場合も、まず自分から探し求めないと手に入るものではありません。受け身で待っていても、勝手に誰も教えてくれないのです。
それでも現代日本では、「仏法を学ぼう」と判断するなら、それ以前から仏教のことをある程度聞いて知っているでしょう。ただし、最初はまだ半信半疑だと思います。
お釈迦様の時代は、仏教とかお釈迦様とかもまだ世に現れたばかりで、今の生き方を超える道があるのではないかと探す人々は、誰かがそれを知って体得しているのではないか、「悟った人」がどこかにいるのではないかなどと、探し求めていました。それが仏教なのか何なのかは分からないまま、教えもまだ知らないまま。
そしてたとえば托鉢に歩いているお坊さんを見かけて、その立ち居振る舞いを観察して、どうも尋常の人ではないと感じて、判断して、それから尋ねるのです。それが仏法だと分かったら、あとはまっしぐらに学ぶでしょう。修行するでしょう。悟りに至るでしょう。
能動的に選び取るための最初の一歩となる判断・決断が、とても重要だと思います。
(第3回に続く)
第1回 「聞→思→修」だけではなく「思・聞・修」も
第3回 「アビダルマ」は仏教独自の教育法