アルボムッレ・スマナサーラ

【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「実況中継での主語の使い方」です。

[Q]

    ヴィパッサナーの座る瞑想で、実況する時には「膨らみます、膨らみます」と、「私が」という主語を入れず、さらに必ず「膨らみ、縮み」など、動きを客観視する言葉を使わなければならないと聞きました。それで、歩く瞑想の時に「上げます、運びます、下ろします」と、主語が入る言葉で実況するのが気になるのですが、それはいいのでしょうか。

[A]

■行為の違いを理解しましょう

    歩く時でも「私がいない」という調子で実況する方がシンプルではないでしょうか?
    修行を続けると、意志と身体の動きの関係が明確になります。意志と動きは見えるが、そこに「私が」と言えるものは無いこと、意志に反して不注意で「私」という主語を使っていることなどを発見できると思います。

《座って瞑想する時、呼吸を「吸います、吐きます」という言葉で実況することは良くないんですか?》

    それは良くありません。座って観察するお腹の膨らみ・縮みは、意志の有る無しに関わらず、生きていたら呼吸に沿って起こる現象だから、意識的な行為とは違います。「吸います、吐きます」という実況は、自分の意志が入っている言葉なので、混乱してうまくいきません。「膨らみ、縮み」のような、自分の意志からは離れた言葉で実況しないといけないんです。ですから、完全に自分を棄てて実況中継できるのは座る瞑想なんです。立ったり歩いたりする時は、どうしても自分の意志が入ります。意志が入る行為と意志の入っていない行為は違うでしょう?    例えば、かゆくなるのは自分の意志でかゆくしたわけじゃないでしょう。

《歩く瞑想の時「上げます、運びます、下ろします」という言葉で実況したら逆効果になるということは無いんですか?》

    それは無いんです。そうやって観察していると自分の意志を発見できます。うまくいけば、意志はあるけど変わらない自我は無いこと、瞬間的に変わる意志に対して、不注意で「自分・自我」というレッテルを貼っていることを発見できるでしょう。
    座っている時にそういう主体的な実況をしたら、混乱してしまって瞑想は続かないんです。座ったら「膨らみ、縮み」「かゆみ」「痛み」など、その状態を客観視した言葉で実況するんです。このやり方で混乱すること無く、早くも無我の真理に達することができると思います。ですから、そこは明確に分けた方がいいんです。

■「自分がいない」という前提で生きてみる

    一般的には、いつでも「自分がいるわけじゃない」という生き方ができれば結構楽に生きられます。疲れませんしね。感情的にならないし、罪を犯すことも無い。こころは汚れません。「自分がいない」という前提でいれば怒ったりすることも無くなります。   
    結局、「私がいる」という自我意識というものが問題を起こすんです。「自我」というものがあるわけではないのに、私たちにはいつでも自我意識が生まれてきますね。それは一つの幻覚なんです。幻覚だから修行によって無くすことができるんです。だから、できるだけ日常生活の中でも「私」という自我なんか無いということで生活してみると、結構楽になります。
    それで、座って瞑想する時は、本格的に「私はいません」という態度で客観的に観察していく。そういう風に実践していると、なぜ自我意識という幻覚が現れてくるのかというシステムが見えてきます。


■出典     『それならブッダにきいてみよう:瞑想実践編1』 

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